『板画家』として知られる棟方志功は明治36年(1903)9月5日青森県青森市に生まれました。小学校卒業後お父さんの鍛冶職を手伝い、17歳の時に裁判所に務めに出ます。そして18歳の時に青森在住の洋画家・小野忠明からゴッホの複製画を見せられて感激。自分でも油絵を描き始めました。画家としては非常に遅いスタートを切った訳です。
この年の秋、友人たちと洋画団体「青光画社」を作り活動を始め、21歳の時画家として身を立てるべく上京して帝展に出品し続けますが、落選が続きます。それでは食っていけないので、やがて教材出版社の画工の職を得て、その仕事の傍ら、絵を描き続けました。
23歳の時、川上澄生の版画に感銘。翌年は今度は古川龍生の版画に触れて触発され、自分でも版画を制作し始めます。そしてその翌年1928年、とうとう第8回日本創作版画協会展、第6回春陽展に版画が続けて入選、更に10月には帝展にも油絵「雑園」が入選して、志功は郷里に凱旋します。
27歳の時赤城チヤと結婚。しかし経済的困難から奥さんは青森に置いたまま東京での「単身赴任」生活が続きます。奥さんを東京に呼び寄せることができたのは4年後のことでした。
棟方の仏教への関わりは1936年「大和し美し版画巻」の縁で河井寛治郎と知り合ったことによります。この時1月ほど河井宅に滞在、経典の講義を受けました。そこから1940年の有名な「二菩薩釈迦十大弟子」へとつながっていき、後に1962年には日石寺から法眼位を受ける所まで行きます。
その日石寺のある富山との縁は1945年戦火を避けて富山に疎開した所から始まっています。東京の自宅の方は5月に空襲を受けて大量の版木を失うことになりました。富山には1951年まで滞在しています。
戦後最初の作品は1946年の第2回日展に出品された24枚連作の「鐘渓頌」。棟方の魅力ともいえる丸くふくよかな顔と同じく丸くデザイン的ともいえる乳房、そして素朴で力強いタッチの棟方板画の真髄が見られます。この作品は後にその半分を「十二の仏者達」の題でヴェナツィア・ビエンナーレ展にも出品しています。
なお「板画」という名称は1942年から使用しています。
1950年代以降の志功は押しも押されぬ超一流の画家としてその地位を確固たるものとします。受賞した賞は枚挙のいとまもなく、国内および海外で開かれた展覧会も大きな評判となります。そんな中で晩年エポックともいえるものは2度に渡る大旅行でしょう。
69歳の時に草野心平とともにインドを旅行、更には70歳の時は奥の細道の蹟をたどっています。晩年も精力的に制作を続けましたが、1974年アメリカ・カナダの講演旅行中に倒れ、帰国後入院。翌年4月退院して自宅療養を続けますが、9月13日帰らぬ人となりました。