明治42年(1909)1月19日、巨人軍の監督として第二期黄金時代を築いた水原茂が香川県に生まれました。
高松商で甲子園優勝を果たしたのち、慶応大学に入り名三塁手として活躍。1936年日本職業野球連盟が創立されると、その年の秋から東京巨人軍に参加。(ちなみに長嶋はこの年この連盟創設の15日後に生まれている。まさに彼はプロ野球の申し子)翌年後楽園球場が竣工すると、オールスター紅白試合で後楽園球場第一号のホームランを打ちました。1942年までの9年間主として三塁手として活躍し1940年にベストナイン、1942年にはMVPに選ばれています。
招集されて大陸に渡りシベリアでの抑留を経験します。1949年7月20日に多くの苦難を乗り越えて帰国。そしてその4日後の24日、巨人対大映の試合前にホームベースのところで「水原茂、ただいま帰ってまいりました」とマイクを握って報告します。そして翌年「知将」三原脩のあとを受けて巨人の監督に就任しました。
就任1年目は3位でしたが、翌1951年から3年間リーグ優勝・日本一。1954年に2位に終わると翌年は水原円裕の名前に変えて再び日本一。しかし翌1956年はリーグ優勝こそしたものの日本シリーズで巨人前監督三原が率いる西鉄(現西武)に破れ、日本一を逃します。
この三原と水原は当時、知将・三原vs勝負師・水原と並び称されていました。三原も水原と同じ高松の出身。水原が高松商業ですが三原は高松中学。三原の方が3学年後輩になるため二人は高松時代は対戦がありません。
さて1957年もまた西鉄に破れた後迎えた1958年。巨人は日本シリーズで初戦から3連勝し、とうとう三原西鉄を倒すかに思われました。しかしここから西鉄はなんと稲尾和久一人で4連勝して、水原の夢を打ち砕いてしまいました。この時稲尾が受けた称号が「神様・仏様・稲尾様」というものでした。
水原巨人は翌年もリーグ優勝しますが、今度は鶴岡率いる黄金時代の南海(現ダイエー)の前に4度涙を呑みます。翌年水原はまた水原茂の名前に戻しますが2位に終わり、監督を川上哲治に譲って退任します。
しかしその水原を球界は簡単には手放してくれませんでした。退任直後東映(現日本ハム)の監督に請われ、1961〜1967年の7年間監督を務めることになります。その間、1962年に藤本率いる阪神を破って5度目の日本一に輝きました。更にその後1969〜1971年には中日の監督も務めています。
1976年野球殿堂入り。通算勝数1586は歴代第4位の堂々たる成績です。1982年3月26日逝去。