宮城道雄(1894-1956)

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「春の海」の作曲者で十七弦の発明者としても知られる宮城道雄(旧姓=菅)は明治27年(1894)4月7日、神戸市で生まれました。父の菅国治郎は神戸の外国人居留地にあった商社に勤めていました。この外国人の多い町で育ったことが自分の音楽に西洋音楽のスピリットを与えることになったと後に本人は語っています。

しかし彼は生後1年にも満たない内に眼病を患い弱視となり8歳頃には完全に失明してしまいました。そのため人の勧めで近くに住んでいた生田流2代目中島検校に弟子入りして箏を習います。11歳で免許皆伝。師匠から一文字もらって中菅道雄と名乗りました。

13歳の時朝鮮半島に渡り、仁川(インチョン)で箏や尺八を人に教えて暮らす生活を始めます。この時朝鮮を訪れた総理大臣・伊藤博文に認められ、伊藤は支援するから東京に来るようにいいますが、直後暗殺されてしまい、その話は消えてしまいました。

結局彼はソウルに移り、ここで結婚して宮城姓を名乗ります。そして22歳の時には朝鮮の箏曲界の最高位・大検校にまでなります。そして翌年日本に戻り、東京に住みますが、ここで彼は妻を亡くしてしまいます。しかも東京ではなかなか収入を得ることができず、彼はしばし極貧の生活を送ることになりました。

1年後、彼は吉村貞子と結婚。貞子の姪が彼に入門し、この頃から暮らしはなんとか上向いていきます。そして大正8年、東京本郷の春木町中央会堂で日本での最初のコンサートを開くことに成功。これを契機に箏曲家・作曲家として東京でもなんとかやっていけるようになりました。

彼の音楽は邦楽に西洋音楽の要素が取り入れられた画期的なもので「新日本音楽」と呼ばれました。大正ロマンの自由な雰囲気の中でその音楽の人気はどんどん高まっていきます。大正14年にNHK(当時東京放送局)がラジオの放送を開始した時、その初日に出演して彼の紡ぎ出す音が東京圏5000人の聴取者の耳に届きました。その後彼はラジオを通して箏曲の講座も開講しています。

昭和4年(1929)には名曲「春の海」を発表。この曲の反響は大きく、日本のみならずアメリカとフランスでもレコードが発売されています。昭和5年には東京音楽学校でも教鞭を執り、伝統的な楽譜の書き方ではなく五線譜に書いてみたり、初心者用の教則本を作成したりして、箏の普及にも大いに力を注ぎました。

彼はそれまでの十三弦の箏に加えて十七弦の箏を制作。これに低音部を担当させることにより、多数の箏での合奏において、音に深みを持たせることに成功しました。彼はその他に八十弦!であるとか、普及用の短琴、なども制作しています。彼はまさに日本音楽の革命児でした。

彼が亡くなったのは昭和31年(1956)6月25日未明のことでした。演奏会のため大阪に向かう途中、夜行急行「銀河」から転落。同日午前7時15分、刈谷の豊田病院で亡くなりました。享年62歳。


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