三木武夫(1907-1988)

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恐らくは日本史上最もクリーンな総理大臣、三木武夫は1907年(明治40年)徳島県で生まれました。

アメリカ留学を経て、1937年明治大学卒業。その年衆議院選挙に当選。その後50年間にわたって国会議員を務めます。

戦後の1947年国民協同党を結成、書記長などを歴任。同党は1950年に民主党野党派と合流して国民民主党となり、1952年に改進党となりますが、ここで幹事長を務めます。1954年には日本自由党と合同して日本民主党になり、ここで鳩山一郎内閣の運輸大臣を務めました。

この日本民主党は翌年「保守大合同」により、自由民主党となりますが、ここで1956年幹事長を務めたほか、要職を歴任。1968年には佐藤栄作の三選に反対して自民党総裁選に立候補、敗退。

1972年田中角栄内閣の閣僚となりますが、1974年の参議院選挙の際は田中の金権体質を批判、選挙後福田赳夫とともに閣僚を辞任します。そして、同年田中が金脈問題で追いつめられて辞任すると、椎名悦三郎副総裁が12月1日、「神に祈る気持ちで」と三木を後継総裁に指名。

これを三木は「青天の霹靂」の名言を吐いて受諾しました。

三木は国民の世論に支えられて、汚職問題を徹底的に糾明、折から露見したロッキード事件においても、予算委員長・荒船清十郎を後押しして、全日空の小佐野賢治ら多数の証人を喚問、その全容を明らかにしました。

(もっとも荒船自身は新幹線を強権で臨時停車させて閣僚をクビになる(1966) など決してクリーンな政治家ではない。後にやはり予算委員長を務めた浜 田幸一を少しだけ頭を良くしたような政治家である。しかしその気骨ある ところがあの厳しい追求を可能にしたのであろう。)

しかし、三木の徹底的な清廉な姿勢に、自民党内部では、その内自分の罪も明らかになってしまうと恐れる政治家が続出、1976年、福田・大平・旧田中の三大派閥が合同で「挙党体制確立協議会」を結成して「三木おろし」を実行、12月、三木を辞任に追い込んで、福田赳夫が後継総裁となります。これには国民から激しいブーイングが起こりました。

(福田赳夫は佐藤後継の時から何度も総裁選に名乗りを上げては落ちていたため、この時、やっと自民党総裁になれたことで、おりしも受験シーズンで福田グッズが受験生のお守りとして人気を呼んだようです)

(三木は在任中、日本武道館で、右翼の男に顔を殴られる事件も起きています。三木の姿勢を左翼に迎合していると誤解したのでしょうか)

総理大臣の地位を強引に奪われても、三木の政治に対する姿勢は不変でした。

まず自民党総裁の選出方法を明確にしようという提案を発表。これが多くの若手議員にも支持されて、全自民党員参加による総裁予備選が実現します。これは1978年に最初に実施され、おおかたの予想に反して、大平正芳が首位。三木おろしによって国民の批判を強く浴びていた福田赳夫は短期間で退くことになりました。

しかしその大平は自身がクリスチャンであるにも関わらず「個人の資格で」靖国神社を参拝するなど、またまた国民を裏切る政治を続けますが、1980年、衆参同日選挙の際、選挙期間中に急死する事故があり、大平への同情票から自民党は大勝。結果的に政治改革は大幅に遅れることになります。

そして三木はこの選挙のあと、自身の派閥の首領を河本敏夫に譲ることになりました。河本は三木に代わって政治浄化の先頭に立ってくれることを国民から期待されていましたが、実際にはその期待をかなり裏切りました。

その後三木は自民党の長老として政界ににらみを利かせる一方で軍縮問題に取り組み、超党派の国際軍縮促進議員連盟の会長も1983年以降務めています。

また1985年には独自にまとめた「政治倫理法案」と「選挙浄化特別措置法案」を提示しました。

1988年11月14日、心不全のため死去。享年81歳。

彼を「史上二番目にクリーンな政治家」にするような、クリーンな総理大臣の登場を願いたいところです。

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