昭和前期を代表する囲碁棋士のひとり、木谷實(みのる)は1909年(明治42)1月25日、神戸市水木通8丁目に生まれました。お父さんは理髪業を営んでおり、實は第一子。のちに下に2人妹ができます。
小さい頃から知人に将棋と囲碁を習い、小学3年生の時に鳥居鍋次郎初段に師事。鳥居の二段昇任パーティーで久保松勝喜代四段に紹介され、こちらに続いて師事することになります。この時、久保松門下には橋本宇太郎(後に本因坊)もいました。
1921年11月25日、久保松の紹介で東京のトップ棋士・鈴木為次郎六段(*1)の元で更に修行をすることになり、高等小学校を中退して上京します。この時、本当はすぐ鈴木六段の家に内弟子として住み込む予定だったのですが、家がたまたま改築中で久保松のツテで相撲の二所ノ関部屋に下宿。翌年春まではそこから鈴木六段の家に通って指導を受けました。このとき二所ノ関部屋にいた玉錦(のち横綱)などとも親交を深めます。この頃、木谷は相撲部屋で、部屋の力士たちに負けないくらい、良くちゃんこを食べていたそうです。木谷の写真というととてもスマートな写真ばかり残っているので、ちょっと信じられないエピソードですね。
(*1)六段といえば現代の段位でいえば中堅クラスという感じだが、当時は、かなりの高段位。鈴木はまもなく七段に昇段しているがその頃九段というのは超別格の本因坊秀哉のみ。準名人扱いの八段は空位で七段も三人しかいなかった。今でいえば大三冠クラスであろう。
1924年2月15日、15歳、でプロとして入段を認められ1926年春に二段、同年夏に三段、翌年春に四段、とスピード出世しました。1927年には毎日新聞主宰の新進打切碁戦で十人抜き。「怪童丸」のニックネームを受けます。1930年に五段に昇進、鈴木為次郎の許から独立し妹の幸子と一緒に青山の家に住みますが、1931年10月10日に柴野美春(1910.3.16-1991.6.3)と結婚、麹町に移りました。
柴野美春は長野県の山奥、地獄谷の出身で、1929年に坂口常次郎五段がたまたま木谷を伴って休暇に訪れ、その時に知り合ったものです。この地獄谷という場所が、2年後に昭和の囲碁史において、重要なポイントになるとは、この時は誰もが予想していなかったでしょう。
この美春との結婚の直前、木谷はふたたび毎日の新進打切碁戦で五連勝を達成するのですが、その中で最も苦労したのが、木谷同様若手として注目を集めていた天才・呉清源との勝負でした。この対局はいったん引き分けとなったあと、打ち直しを木谷が制しています。
呉清源(ご・せいげん/ウ・クィンユァン,1914.5.19-)は中国福建省の出身で中国で天才として名を挙げていましたが、偶然日本の囲碁関係者が訪中したときに紹介されて「すごい子がいる」と騒然となります。
当時は中国にプロ組織はなかったこともあり、日本の囲碁界が、彼にぜひ日本に来て欲しいと招請、1929年に来日しました。日本棋院は念のため控えめに最初三段で入段させましたが、この対局の時は既に四段に昇段しています。
二人に対する囲碁界の期待を背景に、時事新報が1933年木谷五段と呉四段の十番勝負を企画しました。
この対局は三月から始まりましたが、十局も打つのですから時間がかかります。やがて夏になった頃、この第五局の途中で二人は「暑いね」という話から「じゃ、避暑に行こうよ」という話に発展し、木谷が「ぼくの妻の実家が長野の山奥で、結構涼しいんだよ。温泉もあるし」などといった感じの話になって、二人は美春の実家のある地獄谷温泉に一緒に旅をすることになります。
対局の最中に、しかもその対局者同士が避暑旅行というのは、ずいぶんのんびりした話なのですが、今のように対局がインターネットでリアルタイムに報道されるような時代ではありません。新聞に掲載されるのはどうせ数ヶ月後ですので、新聞社の方も「掲載の時期までには戻ってきて続きを打ってくださいよ」ということで気軽に許可を出したそうです。
しかし避暑旅行といっても碁打ちが二人で旅行すれば、食事の時間と寝ている時間以外は、ずっと碁を打っているに決まっています。しかも地獄谷は隔絶された秘境で雑音が入りません。二人はこの時、物凄い集中状態の中にありました。
その中で編み出されたのが「新布石」でした。
囲碁を打つ碁盤は19×19の目が刻まれていますが、19個というのは人間の目で一瞬で位置を把握するには広すぎます。そこで碁盤の4,10,16筋の交点(合計9ヶ所)に目を読みやすいように「星」と呼ばれる、やや大きな点が打たれています。
┬┬┬┬┬┬┐ ┼┼┼┼┼┼┤ ┼┼┼┼┼┼┤ ★=星 ┼┼┼★●┼┤ ●=小目 ┼┼◆┼┼┼┤ ◆=五五 ┼┼┼┼┼┼┤ ┼┼┼┼┼┼┤
それまで囲碁界では初手を右上隅(みぎうわすみ)の星の隣の点である「小目」(こもく)に打つ方法が良い打ち方であるとされていました。ここに打っておけば、それを拠点にその右上隅付近に自分の勢力範囲を作ることができます。
しかし木谷と呉の二人は小目ではなく、その隣の星に打ったらどうなるか、更にはその更に内側の点(五五)に打ったらどうなるか、という誰もが打ったことのない、新しい布石を打ってみました。
すると、星に打つ場合小目より盤端から離れているため、相手から打ち込まれてきた時の防衛方法が小目の場合より難しくなるものの、それよりも中央に向かって進出する勢いがあり、攻撃的な碁が打てることを発見したのです。
二人はこの方法を「新布石」として発表。当時新布石は確かにこの二人以外の人がやっても確かに高い勝率を上げました。更にはまもなく囲碁にコミという制度が導入されて従来より厳しい闘いが行われるようになったことから、小目に打つより攻撃的な星打ちの碁は支持され、これは完全に新しい戦法として定着して現在に至っています。
この新布石を生みだした時、木谷は24歳、呉は19歳です。二人の若き天才が従来の理論を覆す大発見をしたのでした。
なお当時彼らは星より更に攻撃的な五五に打つ碁もやっています。彼らのレベルですとこれでも勝てるのですが、普通の人ですとさすがに五五に打ったあと相手から攻められた時の応手は難しく、こちらは一般には定着しませんでした。最近では日本囲碁界の若手ナンバーワンである山下敬吾・元碁聖(1978生)がこの五五打ちを時々やっていますが、さすがに追随者が出ません。
さて、木谷はその後1934年には六段、1936年には七段に昇進して、段位の上でもトップ棋士と認定されました。
この頃、囲碁界の中核である本因坊秀哉(1874生)が引退の意向を表明。しかも本因坊家の跡継ぎは定めず「本因坊」という名前は日本棋院に依託するとしました。本因坊というのは、初代名人の算砂(1559-1623)が京都寂光寺の本因坊という名前の坊にいたことから、江戸時代「本因坊家」が定められ、囲碁の家元として、代々囲碁の強い人が養子として入って家を継ぐという方式で名前が伝えられてきたものです。しかし秀哉名人の意向により、以後本因坊というのは日本棋院で管理する称号となることになりました。
そして、この秀哉名人の引退記念の碁が打たれることになり、挑戦者をリーグ戦で決めることになります。そのリーグ戦に木谷は参加し、結局全勝で挑戦権を得ました。この名人引退碁は1938年6月26日に始まりますが、持ち時間が40時間という今ではとても考えられないような、すごい対局になりました。
一人40時間ですから2人で80時間。毎日8時間ずつやっても10日かかります。むろん連続して10日やったらとても持ちませんので(だいたい、こういうトップ棋士同士での対局では1日で体重が2kgくらい落ちるそうです。碁盤の前に座っているだけでも、脳味噌が凄まじい活動をしているわけです)日を置いて打ち継いでいくわけですが、途中秀哉名人が病気でダウンして中断したこともあり、結局終わったのは12月4日でした。結果は木谷の5目勝。
この半年もかかった凄まじい対局の様子は、当時観戦記者をしていた川端康成が記録した「名人」で読むことができます。
この激戦を闘った木谷に更にまた大きな闘いの場が設けられました。永遠のライバルであり親友である呉清源との十番勝負を読売新聞が企画しました。読売新聞は1924年に正力松太郎が買収して以来、プロ野球チームの創設など「報道するネタを作って報道する」野心的な戦略で購読部数を急速に伸ばしてきており、ここで囲碁界のトップ棋士二人の対局を企画したわけです。
(読売新聞はそれ以前にも日本棋院と対立組織の棋正社との対局シリーズを主宰している。この時はまだプロになりたての木谷らの活躍で対局は日本棋院側の一方的な勝利。勝負としての盛り上がりに欠けて、読売の意図は外れてしまった)
しかし結局、この呉との十番勝負が棋士としての木谷の転換点となってしまいました。問題の対局はその第一局です。
盤面で二人が厳しい闘いを続けているところ、残り時間は木谷が9分になっていましたが、呉はまだ充分に時間を残していました。戦いは予断を許さない状況。その時、木谷は盤面左上隅に勝負手を放つ。その瞬間、倒れてしまいました。
囲碁の対局中、棋士は盤面に凄まじい集中をしています。震度4くらいの地震が来たのに全然気づかなかったという話は多いです。お茶をつごうとして誤って灰皿にそそいでしまい、空の湯飲みを口元に持ってきて「アレ?」という表情をした棋士の話、タバコの火が付いたまま灰皿に入れ灰皿が火事になってしまってまわりが騒いでいるのに本人は全然気づいていなかったという話などこの付近はエピソードが多いです。この時も対戦相手の木谷が目の前で倒れたというのに対局相手の呉は、そのことに全く気づきませんでした。そして木谷の勝負手に対する対策を長考し始めました。
しかしまわりは騒然となります。木谷は抱き抱えられて部屋の外に連れ出されますが、本人はそれを振り切って、頭を冷やす手ぬぐいをつけたまま「相手が考えている時間、自分も見ていたいのだ」といって碁盤の前に戻りました。
呉の長考が30分続いた所でさすがに見かねた立会人が声を掛けます。「呉さんどうしましょう。休憩にしましょうか?」
ここで呉が次の手を打ってしまえば、体調最悪の上に持ち時間がわずかしか残っていない木谷は苦しい。しかしだからといって、その呉が打った直後に休憩を入れるのは、木谷に有利すぎて不公平。できれば呉が打つ前に休憩を入れられればと考えたのでしょう。
しかし呉はそもそも木谷の体調不良に全く気づいていません。「いや、あと少しで打つから」と言い、また廊下に出て休んでいた木谷の方に「木谷さん休憩にしますか?私はもう打ちますよ」といって応手を打ちます。そこで休憩が入れられました。(勝負は結局呉の勝ち)
結果的には木谷に有利な形で休憩が入れられたわけですが、当時は日中戦争が混迷を深めてきていた時代。この時の様子が報道されると「相手の体調に気を遣わないなんて、中国人はなんて汚いんだ」という世論が沸き起こってしまいます。これには呉も戸惑い、また木谷も困ってしまったようです。
しかしその後は、呉がそういう悪評をはねのけて、囲碁界で華々しい活躍を続けていくのに対して、木谷はいまひとつ調子が出ないようになり、第一線からは次第に離れていくことになります。
しかし木谷の囲碁界への貢献は実はこのあとの方が大きくなるのです。
木谷は1937年に平塚に住居を移していました。その頃までに既に5人の内弟子がいましたが、この平塚時代に住み込みの弟子がどんどん増えていくことになります。空襲が激しかった時代は疎開していましたが(なお木谷は1944年に招集を受けて朝鮮半島の戦線に参加するが数ヶ月で除隊。無事戻ってきた)終戦後また平塚に戻ってきて食物の無い時代は庭に畑を作って野菜を植え、多くの弟子たちを文字通り育てました。その人数はピーク時には30人を越え、レクリエーションにソフトボールをしたりもしています。
木谷は自分の子供も7人いましたが、この7人も基本的には内弟子たちとほぼ同じ扱い(内弟子以下だったかも)。内弟子たちのために敷地内に建てた宿舎で寝泊まりしていたようです。当時木谷が地方に出ていて有望な少年などを現地で紹介されると留守を預かる奥さんの美春さんの所に「部屋をひとつ増設しておいて」などという連絡が入ることもあったとか。
家族も含めると40人。まるで学校の学級がひとつあるような大家族の食事などは、ほんとうにすさまじいものであったようです。そういった中からその後の棋界を支える有望な棋士が輩出しています。主な所だけあげても
大竹英雄・石田芳夫・加藤正夫・趙治勲・小林光一・武宮正樹
などといったところがいます。その中で小林光一(のち五冠)は木谷の娘の禮子と結婚することになります。これは今の小林を見たら誰もが「娘を優秀な弟子と結婚させたんだな」と思うかも知れませんが、当時はまだ小林はそれほど芽が出ていなかった時代。若かったこともあり、相当の反対を押し切っての結婚であったようです。
木谷の子供は7人ですが、実はプロ棋士になったのはこの禮子(六段,女流本因坊,1939.12.23生,1996.4.16死去,七段追贈)だけでした。まさに「向き不向き」という世界か。そして、この禮子と小林光一の間に生まれたのが小林泉美(現在五段,1977.6.20生)です。
このような内弟子の指導のほかにも、木谷は「土曜木谷会」という研究会を長年続けており、また女子院生との稽古碁シリーズを雑誌上で行うなど、若手育成に注いだ情熱は並々ならぬものがあります。この土曜木谷会は現在も仁風会と名前を変えて継続しています。院生のトップと若手棋士が闘う異例の棋戦「鳳雛戦」はこの仁風会の主宰です(禮子の提案で始まったもの)。
(院生というのは日本棋院に属しているプロ候補生たちで、入るには相当高い棋力が必要。だいたい小学校低学年でアマ三段程度。年齢が高くなれば、もっと高い棋力がなければ入れてもらえない。原則として13歳以下までしか認めないが、外国人など特殊な事情がある場合は別途考慮。また原則として18歳の学年までにプロになれなかった場合は卒業だが、女子では20歳まで残れる場合もある。なお院生をやめても30歳まではプロ試験の受験資格はある)
なお木谷は1962-1964には棋士会長、1965-1969には日本棋院理事を務めています。その後日本棋院顧問。1965年には紫綬褒章。
木谷の棋風というのは鋭い読みが特徴であるとされ、その厳しさ故に、長く第一線で活動し続けるのは無理だったのではないかという評をする人もあります。江戸時代の本因坊道策の高弟たちが、みなハイレベルであったのに短命(棋士としてでなく本当に若死にしている)だったことも連想させるものです。
1954年に一度目の脳溢血の発作。これは事なきを得ましたが1963年に2度目の発作。いったん復帰したものの対局中に血圧急上昇により棄権。その後は正式対局はひじょうにまばらになります。1968年12月24日のプロ十傑戦の予選が最後の公式対局となりました。1973年に3度目の発作。療養を続け一時は退院しますが、1975年12月19日、自宅にて逝去。享年66歳。
なお、木谷と呉の家族ぐるみの交流は一生続き、呉はよく木谷の研究会にも顔を出していたそうです。この二人ほど仲のいいライバルというのも珍しいとよく言われます。なお、木谷の師の鈴木為次郎と呉の師匠の瀬越憲作も良きライバル、木谷の弟子の趙治勲と呉の弟子の林海峯も良きライバル、ということでこのライバル関係は3代続いているのだともいわれます。なお趙治勲が木谷門下に入ってきた時に最初に対局したのが実は林海峯で、このとき、6歳の趙が当時既に六段になっていた林に5子置いて打ったら趙の14目勝ちという大差で、みんながその少年棋士の力に驚いたそうです。この林と趙の二人は感想戦の長さでも有名で、夜中の十二時に終わった対局の感想戦を昼の十二時まで延々とやっていたという話もあります。