梶原一騎(1936-1987)

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「巨人の星」や「あしたのジョー」の原作者として知られる梶原一騎(本名高森朝樹)は昭和10年(1936)9月4日に生まれました。(1935説もあり)

1954年頃から雑誌の懸賞小説に応募しジュブナイル作家を目指していましたが、やがて漫画以前の「絵物語」の原作を書くようになります。彼の好きなスポーツものが多かったようです。漫画の原作の第1号は1962年「チャンピオン太」(画:吉田竜夫)になります。この作品は知る人は少ないと思われますが、単行本が11巻まで出て、テレビドラマにもなったようです。

しかし彼の名を大きく広めることになったのは1966年から少年マガジンに5年間にわたって連載された「巨人の星」(画:川崎のぼる)でしょう。

■巨人の星父・星一徹に「養成ギブス」を付けさせられたり地獄のノックを受けたりして野球のスパルタ教育を受けた星飛雄馬はやがて甲子園に出場するが怪我のため準優勝に終わる。そこから起きたトラブルで高校を辞めるがテスト生から憧れの巨人に入団した。彼は貴重な左腕ピッチャーとして正確無比な制球能力を持っていたが致命的な欠陥があった。彼の球は「軽い」のである。打たれると長打をくらう危険がある。その欠点克服のため彼は「消える魔球」などの3種類の「大リーグボール」を編み出し、花形満・伴宙太らのライバルと激しい死闘をくり広げる。しかし最後は無理がたたりボールが投げられない状態になって、球界を去る。

 後に再開された新シリーズ(1976〜1979)では本来の利き手である右で投げる右腕ピッチャーとして球界復帰を果たす。左腕の方がバッターに対して有利であるので、彼は父に無理矢理左で投げるように矯正されていたのである。

この「巨人の星」は当時アニメにもなり男性コーラスが力強く歌う主題歌とともに大きなヒット作となり、その後10年ほども続く「根性もの」アニメ・ブームの先駆けとなります。

梶原はその後1967〜1971年には「夕やけ番長」(画:荘司としお)、1967〜1968年には「柔道一直線」(画:永島慎二,斎藤ゆずる)、などの作品の原作を書きつつ1968年から5年間にわたって2度目の大ヒット「あしたのジョー」(画:ちばてつや)を生みだします。

■あしたのジョーチンピラ少年の矢吹丈は元ボクサーの丹下段平に才能を見い出されるが、詐欺事件を起こして少年院に入れられてしまう。丈はやがて少年院から脱走するが、力石徹という男に素手で叩きのめされてしまった。力石を倒してやろうと決意した丈は、少年院まで追ってきた段平の指導で本格的にボクシングを始める。プロデビュー後連戦連勝を重ねていくが、やがて力石が彼と対決すべく、本来上の体重クラスから地獄の減量をして、丈のクラスにやってきた。二人の闘いは激しいものだったが勝利の女神は力石に微笑む。しかしこの試合でのダメージが元で力石は死んでしまった。目標を失った丈だったがやがて試合に完全燃焼することに自分の「あした」を見い出し始める。そして世界チャンピオン、ホセ・メンドーサとの闘いに挑むが。。。力石の減量の話は梶原氏とちば氏の連絡ミスから発生したエピソードであるらしい。梶原氏の本来の予定で両者の対決が筋に入っていたので同じくらいの体格のはずだったのが連絡不行き届きで非常に大柄なキャラとして描かれてしまった。そこでやむなく大減量をすることになり結果的には力石の寿命を縮めることになったのかも知れない。なおラストでジョーが死んだのかどうかについてはファンの間でも意見が分かれる。

この作品も段平の「立て!立つんだ、ジョー!」という叫び声が後の多くの作品でパクられています。漫画というものには、こういうお互いにパクリ合う文化があり、互いにある程度寛容な空気があります。

梶原は同じ1968年から3年半ほどに渡り「タイガーマスク」(画:辻なおき)も生みだしています。この時期は梶原の黄金時代です。

■タイガーマスク「虎の穴」出身の正体不明プロレスラー、タイガーマスク(実は伊達直人)は自分が育った孤児院「ちびっこハウス」の経営難を救うため組織の掟に背いたことから数多くの虎の穴の刺客に狙われることになる。自分の試合を見に来た子供たちのため反則技を使わないようにしようと決意するタイガーマスク。そして次々に来る虎の穴のレスラーに対抗するためウルトラ・タイガー・ドロップ、フジヤマ・タイガー・ブリーカーなどの必殺技を編み出していく。やがて虎の穴はハウスの少年を誘拐してタイガーマスクを呼び出し、殺そうとするが、馬場や猪木らの協力もあり逆に組織を壊滅させる。やがてタイガーマスクは世界チャンピオン・ドリーファンク・ジュニアとの対戦を迎える。第二戦の会場の近くまで来た時、伊達は車にひかれそうになった少年を助けるが自らは致命傷を負ってしまった。死の息の中で伊達はポケットにしまっていたタイガーのマスクを秘かに川に投げ捨て、少年達の夢であるタイガーマスクの正体の謎を守った。

更に1969年には当時突然のブームとなったキックボクシングの実際のチャンピオン沢村忠の半生を描いた「キックの鬼」(画:中城けんたろう)も書いています。

■キックの鬼満州で祖父と過ごしていた沢村忠は、たきぎが無くなったので木を取ってくると言う祖父が生木を道具無しで折って来たのを見て、祖父が操る技、「空手」の魅力に惹かれる。やがて空手でその道の第一人者となった沢村だったが「世界一の格闘技はタイ式ボクシング」だという主張に反発して空手とタイ式ボクシングの異種格闘技の試合に出ることに。その相手を簡単にマットに沈めた沢村だったが「あれは三流選手。チャンピオンはもっと強い」と言われそのチャンピオンに挑戦。完璧な敗戦を喫す。リベンジに燃える沢村は空手からタイ式ボクシングに転向。連戦連勝を重ねる。ここに興行元は沢村というスターを得て、相撲・ボクシング・プロレスに続く、第四の格闘技「キックボクシング」として、新しいジャンルの確立に成功した。そして沢村はある対戦中の偶然のできごとから「真空飛び蹴り」という必殺技を編み出し、これは後に「真空飛び膝蹴り」へ進化する。ほとんど事実を描いたもので、お金が無い時代にドッグフードを食べて空腹を紛らしたこととか、山籠もりしている時に眉を片方剃り、片方しか眉の無い顔は変で恥ずかしいから生えそろうまでは山を下りれないと自分に言い聞かせて練習に励む姿などが描かれていました。

その後の梶原作品には次のようなものがあります。

 「侍ジャイアンツ」(画:井上コオ) 1971〜1974「空手バカ一代」(画:つのだじろう,影丸譲也) 1971〜1977「愛と誠」(画:ながやす巧) 1973〜1976 「プロレススーパースター列伝」(画:原田久仁信) 1980〜1983

「空手バカ一代」は極真会館の大山倍達総裁の半生記として非常に評価の高い作品です。。。が残念ながら未読。解説が書けません。済みません。

梶原氏はこれだけ多くの作品を世に送り出したにも関わらず、常に漫画界にも一般社会においてもドロップアウトしたかのような生き方をしていました。原作者としてデビューしたてのころも、編集者側からの修正要求などを一切拒否して困らせたりすることが多かったそうですし、晩年には若手作家への恐喝、編集者への暴行などで有罪判決を受けたりもしています。そして事件後、壊死性劇症膵臓炎という病気に苦しめられながらも、病気から生還すると最後の作品にするつもりで「男の星座」(画:原田久仁信)に取りかかります。しかしその途中で再び病魔に倒れてしまいました。

1987年1月21日12:55、急性心不全の為死去。享年50歳。


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