数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞した2人目の日本人である、広中平祐は1931年(昭和6年)4月9日、山口県由宇町で生まれました。
1954年京都大学卒業後1960年にハーバード大で博士号取得。ブランダイス大の講師・助教授・准教授を経て1964年33歳でコロンビア大学教授。1968年にハーバード大学教授。そして1970年に39歳でフィールズ賞を受賞しました。
ノーベル賞になぜ数学賞が無いのかは謎とされています。ノーベルはよほど数学が嫌いだったのでは?などという俗説までありますが、フィールズ賞というのは、ノーベル賞に関わることのできない数学者のために、設けられたもので基本的にノーベル賞と同等の権威があると考えられます。またノーベル賞が近年は長年その分野に貢献してきた人に与えられる色彩が強くなりつつあるのに対して、フィールズ賞は受賞年齢を40歳以下と制限しており、その年までに偉大な発見をして、今後も長年数学の研究に貢献してくれそうな人にしか与えられないことになっており、その受賞はノーベル賞以上に難しいともいわれます。
広中がフィールズ賞を受けた研究は、各種の多様体上の特異点の解消に関する研究です。
特異点というのは、たとえば三角形の角のように、連続性のとぎれている点のことをいいます。ところが、平面で三角形に見えている図形が、次元の数を増やしてみると実はその部分もなめらかに変化している図形になっているかも知れません。それがたまたま二次元に押しつぶした(投影した)時、三角形に見えていた可能性もあります。
このような思考は二次元や三次元程度では、比較的容易に納得できるのですが、それが高次の図形になっても可能であることを証明したのが、広中の功績です。
フィールズ賞受賞後広中はしばしば日本を訪れ、1975年からは京大教授に就任しますが、日本国内の保守的な学会の雰囲気に失望し、1988年辞任。再びハーバード大に復帰しました。その一方で民間レベルの数学振興には大いに貢献しており、マスコミへもよく登場していますし、1984年には財団法人数理科学振興会を設立。代表に就任しました。
広中を追い出してしまった形の京大も1991年には彼に名誉教授の称号を授与して、和解の道を提示します。そして、広中は1996年出身地である山口県に戻って山口大学の学長に就任しました。現在2期目を務めていますが、広中学長の元で現在山口大学はいろいろな画期的試みを実施し、非常に先進的な大学に変身しつつあります。
広中氏の特異点解消に関する発見の裏には大数学者・岡潔の意見があったというのも有名なエピソードです。
ある時、広中氏が講演でこういうことを言ったそうです。「どうしてもよく分析できない状況があったら、いくつか仮定を設定してみるんです。最初の仮定で足りなかったらもう一つ足してみる。そうやっている内に道筋が見えてきます」
ところがその途端、会場の中にいた岡潔が立ち上がりこう言い放ちました。
「君、それは間違っている。真理に迫るには仮定を減らした方がいいんだ」。
虚を突かれた思いがした広中氏は自分が今悩んでいる問題で試しに仮定を減らしてみたら、ほんとに定理を証明することができて、それが大発見につながったとのことです。
Simple is Beautiful.
なお、広中平祐氏の夫人は参議院議員の広中和歌子さんです。