藤圭子(1951-)

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現在では宇多田ヒカルの母親としての知名度の方が高くなってしまった感もある歌手・藤圭子(本名宇多田純子,旧姓阿部)は1951年7月5日、岩手県一関市で生まれました。

浪曲師の父母を持ち一家は主として東北地方を巡業してまわっており兄ものちに歌手になっています。本人も歌唱の才能を開花させ10歳の時三原純子の名前で舞台に立ちました。

中学3年生の時に岩見沢市の娯楽センターの専属歌手となりここで作曲家の八洲秀章に見いだされて上京。この年の春、島純子の名前で初めてレコードを制作します。

その年の秋に石坂まさを(*1)と出会い、翌1969年RCAビクターと専属契約。同年9月に藤圭子の名前で「新宿の女」を制作してメジャーデビューしました。これが37万枚も売れる大ヒットになります。

翌1970年には「女のブルース」に続いて、彼女の代表作ともいうべき「圭子の夢は夜ひらく」を発表。この第二作,第三作ともに75万枚の超大ヒットで、(当時のレコード購買層を考えると今ならおそらく200万枚クラスのヒット)藤圭子は完全に一流歌手の仲間入りをします。

「圭子の夢は夜ひらく」は園まりの「夢は夜ひらく」のカバーですが、清楚で陽の雰囲気の園に比べて、暗い演出(これはわざとだったらしい)で陰の雰囲気を出していた藤はこの歌のイメージにピッタリで、彼女の人気を不動のものにしました。

その後も彼女は「命預けます(レコード大賞大衆賞受賞)」「みちのく小唄」「京都から博多まで」などのヒット曲を次々に出していきました。

(*1)「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」など藤圭子に   多数の曲を提供している。藤以外では、クールファイブ、角川博、   郷ひろみ、酒井法子などへの楽曲提供もある。

私生活では1971年にクールファイブのボーカル前川清と結婚。しかしわずか1年で離婚することになりました。(クリスチャンのため離婚の許可を取るのにバチカンを訪れている)

その後も地道な活動を続けていましたが1979年10月引退を発表。日本を離れハワイ、そしてニューヨークと移り住みました。1981年にはいったん日本に戻り「藤圭似子」の名前で歌謡界に復帰しましたがすぐまた日本を離れアメリカに戻っています。そして1982年に当地で宇多田照實と結婚。翌年長女光を出産しました。(名前は1984年にまた藤圭子に戻している)

そして娘の光が彼女に劣らぬ歌唱力の才能の片鱗を見せ始めます。1990年頃から小学生の光と夫・照實の3人で U3 の名前で現地で活動を始め1995年にインディーズで U3 のレコードを発売。その活動のことを1996年に「徹子の部屋」で報告していました。

その頃から光の日本デビューの計画も動き始めていたようですが仲介役の人があるレコード会社に話を持ち込んだところ「藤圭子の娘?そんなの売れるわけないでしょ」と言われてテープも聴いてもらえなかったとのこと。今となってみればこの担当者は減給ものです。

1998年宇多田ヒカル、日本デビュー。同年藤圭子はレコード会社との専属契約も解除して完全引退。今は娘の活動を見守る良き母に徹しています。


(2002-07-04)

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