エノケン(1904-1970)

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1904年(明治37)10月11日東京青山にて、喜劇王と呼ばれた「エノケン」こと榎本健一が生まれました。

幼い頃に母を亡くし、川越に住む母方の祖母のもとで育てられました。祖母の死後は父親のもとに戻されますが、父親とは何かと対立。中学を登校拒否してしばしば家を飛び出し、親戚の家を渡り歩く生活を続けます。そんな中で彼を一番よく面倒見ていたのが、後に彼のマネージャー役となる叔父の榎本幸吉でした。

南洋や満州へ行きたいとか、外国航路の船員になりたいとかいった冒険心に揺れたあげく、役者になりたいという希望から、浅草の人気劇団・根岸歌劇団の歌手・柳田貞一に入門、やがてこの歌劇団のコーラスボーイに採用されます。これが「エノケン」の役者人生の出発点でした。

彼は歌もうまくまた覚えが良かったので、急速に頭角を現して行ったようです。そのまま順調に行っていれば、彼は大オペラ歌手になっていたかも知れませんでしたが、ここに関東大震災が襲いかかりました。

浅草の劇場はみな壊滅。根岸歌劇団も舞台のある場所を求めて地方巡業をしますが、当時浅草だからこそ奇跡的にオペラが成立したのであって、地方で客を呼ぶことはできませんでした。劇団は自然消滅。彼は小銭稼ぎのため、京都嵐山で何人かの仲間の団員と組んで野外コントを上演。この経験が後の彼の喜劇のベースとなったようです。

東京が復興してきたところで彼は浅草に戻り、1929年浅草公園水族館の2階のレビュー「カジノ・フォーリー」に参加します。しかし客が入らず2ヶ月で閉鎖。経営者は別の劇団を誘致しようとしたようですが成功せず、榎本に君がやらないかと持ちかけます。そこで彼は昔の仲間に声を掛け「(新生)カジノ・フォーリー」を結成。榎本の原案と演出で、コントが上演されるようになりました。

この新しい劇団はたいへん好評で、ここに熱心に通った若き川端康成などの紹介で全国にもその名が知られるようになり、水族館には毎日大勢の人が詰めかけてきて(水族館の入館料を払うと「余興」のカジノ・フォーリーが見られる仕組み)、客席は連日満員でした。

榎本はその後、この水族館を出て観音劇場、玉木劇場と移動して、やがて浅草オペラ館で「ピエル・ブリアント」を結成。ここでお金の計算が全くできない健一に代わって叔父の幸吉を経営者に迎えました。なお、観音劇場時代の文芸部長がサトー・ハチロウでした。

この「ピエル・ブリアント」に注目したのが松竹でした。

松竹は榎本と高額のギャラで専属契約。彼の劇団は浅草や新宿の松竹座に出演することになります。あわせて1934年からはPCL(現東宝)と提携して映画も制作、太平洋戦争へと突き進んでいく暗い世相の中、彼の劇団の笑いはつかのまの庶民の心の安らぎとなりました。

戦後は焼け野原になった浅草に代わって、日比谷の有楽座で活動開始。この時ブギウギの笠沖シヅ子と共演。この強烈な個性のぶつかり合いは新しい日本の価値観を求める大衆に支持され、エノケン一座は第三の黄金期を迎えます。この共演は1950年頃まで続きますが、この年榎本は公演中に突然倒れます。左足の激痛。脱疽でした。

彼の入院でエノケン劇団は解散。この時は何とか1月ほどで退院にこぎつけますが、2年後再発。今度は右足でした。入院した慶應病院で右足を切断しなければならないと告げられますが、彼はそれを拒否して東大の大槻正路博士を訪ね、博士の治療によって右足の指の切断だけで何とか済ませます。

リハビリを経て、1953年まずはテレビで復帰。1955年には舞台にも戻って来ました。そしてその年の秋、彼は柳家金五郎・古川ロッパと組んで「アチャラカ誕生」を上演。これまでの喜劇の集大成ともいうべきもので、喜劇にまた新しい時代を作り出すものでした。この時の出演者に三木のり平、トニー谷らがいました。

ここで「アチャラカ」というのは洋物を意味する「アチラ」と、チャラにするなどといった時に使う「チャラ」の合成語で、要するに計算し尽くされたドタバタ喜劇を指します。この豪華メンバーだからなしえたものでしょう。

その後もエノケンは舞台でTVで映画でと精力的な活動を続けます。1960年には長年の功績を称えて紫綬褒章が贈られました。この時、舞台で共演した森光子がエノケンと喧嘩するシーンで森がアドリブで「紫綬褒章までもらっておいてアチャラカなんかやってんじゃないよ」というとエノケンは「アチャラカやってたからもらえたんじゃないか」と応酬したとのことです。

しかし病魔が彼をまた襲います。1962年右足の脱疽が再発。今度は右足の腿から下を切断せざるを得ませんでした。手術が終わってしばらくした時、彼の病室を訪ねた人物がいました。チャップリンと並び称された大喜劇俳優ハロルド・ロイドでした。

ロイドは自分の右手を見せこういいました。「私も撮影中の事故でこのように親指と人差し指を失いました。ハリウッドにも片足を無くして義足で頑張っている俳優はいます。次に日本に来る時はあなたがまた舞台や映画で活躍しているところを見たい」

エノケンは再び再起。特製の動かしやすい義足をつけて、TVや舞台に臨みました。そして亡くなる前年までTVや舞台で活動を続けました。

1970年1月7日14時50分。肝硬変のため日本大学駿河台病院にて死去。享年65。

その生涯や若き日の姿は後に彼と共演したこともある坂本九によっても演じられることになります。


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