土光敏夫(1896-1988)

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1980年代に行政改革に辣腕を振るい「日本の再建」を成し遂げた土光敏夫は1896年(明治29年)9月15日、岡山県大野村(現岡山市)に生まれました。

関西中学から東京高等工業学校(現東京工業大学)に進学。卒業後、東京石川島造船所(後の石川島播磨重工業:IHI)に入社。1936年に芝浦製作所(現東芝)との合弁事業・石川島芝浦タービンに技術部長として出向、後に社長となります。

戦後、本体の石川島重工業(石川島造船所から改称)が敗戦による産業構造の変化により経営危機に陥っていたことから呼び戻されて社長に就任。ここで自ら先頭に立って全力で働き、美事会社を再生させます。この時、社長就任初日に土光は早朝、まだ誰も社員が出てきていない内に出社してきたといいます。いわゆる「重役出勤」とは真逆のパフォーマンスです。すると社長がそんなに早く出てきていたら、他の役員も遅く出てくる訳には行かず早朝から出勤してくるようになります。

すると役員がそんなに早く来ていたら部長や課長も早く出てこざるを得なくなり、役職者が早く出てきていたら平社員も仕事に気合いが入り、ということで、社内のムードは一変しました。土光という人は、みんなが頑張ろうというムードを作るのが、ひじょうにうまかったのです。そしてパフォーマンスの天才でした。

1965年には、やはり経営危機に陥っていた東芝に社長として赴任しますが、ここで言った言葉がまた有名です。
「社員諸君は今までより3倍働いてくれ。そして役員は10倍働け。そして私はそれ以上に働く」

これで東芝も社内の空気が一変し、再建に成功します。土光はある時、こんなことを言っています。社是とかスローガンとかを作るのは良くない。状況は日々変化する。だからもし社是を作るなら、毎日新しい社是が必要だ。

このあたりの柔軟性、そして会社を成長させるのに社員と一緒になって行動していこうとする姿勢が、最近のどうかしたブラック企業の経営者とは格が違う所です。1974年には経団連会長に就任。オイルショック後の厳しい経営環境の中で経済界のリーダーとして難しい舵取りをし、日本企業の経営安定化に尽力します。

さて、一般に経団連会長などという職は、経営の世界で仕事をしてきた人が最後に就く、いわば「最後のご奉公」のようなもの。「あがり」の職です。しかし土光敏夫がその名を歴史に刻むことになる仕事はその先に待っていたのです。

1981年、第二次臨時行政調査会長に就任しますが、この時、土光はいくつかの条件を就任のための条件としました。

・首相はこの答申を必ず実行し、行革を断行すること
・増税によらない財政再建
・自治体を含めての中央・地方を通した行革
・特殊法人の民営化、官業の民業圧迫解除、そして3K(米・国鉄・健康保険)の赤字解消

結果的にこの臨調の活動により、国鉄の分割民営化、電電公社の民営化、などが実行されることになります。その後、行政改革というのは何度も実施されていますが、土光氏による改革がうまく行ったのは、最初に必ず実行することという条件を付けて就任していること、土光氏自身の抜群の行動力と人を説得する能力、そして土光氏自身が、とても質素な生活を送っていたことがあります。

石川島重工業時代から、車ではなくバスで通勤し、質素な食生活を送り、身の回りの品も簡単には捨てず、奥さんが「いい加減変えましょうよ」と言っても「まだ使える」と言って、古いコップやブラシを使い続けていたと言います。

年収は5000万くらいあっても生活費は月々10万程度で、残りは全て寄付していました。

1988年8月4日、老衰のため死去。91歳。

(2013-09-14)Dropped down from 今日は何の日.


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