俳優の伴淳三郎(本名鈴木寛定)は1908年(明治41)1月10日山形県米沢市で生れました。お父さんは画家で、彼も絵がうまかったようです。小学校5年生の時にそのお父さんが亡くなり丁稚奉公に出るのですが、うまく行かず、すぐクビになります。14歳の時に役者になろうと上京。大衆演劇の一座に入り修行を積みました。
1928年に日活の「血煙高田の馬場」の端役で映画デビュー。これ以後、生涯に約300の映画に出演しました。1935年に自分の一座を結成し、ここで清川虹子と出会います。彼女との仲がどういうものであったのかは他人には伺い知れない部分もありますが、結婚したり別れたりしながらも生涯の良き伴侶であったようです。
1934頃に映画会社を大都に移り、この新天地で少しずつ重要な役どころが得られるようになります。流行語ともなった「アジャパー」という言葉は戦後になって1951年頃に使ったものだそうですが、戦後の映画にはコミカルなものも多く「駅前」シリーズにも何度も出演していて、彼を「喜劇役者」とみる人も多いでしょう。しかし彼の持ち味は本格派の映画でも十分に出ており、1965年の「飢餓海峡」は評価が高いようです。
私が彼の出演作で最も印象が強いのは1974年にNHKで放送された連続ドラマ「帽子とひまわり」です。弁護士事務所を舞台に、スリや交通事故など、ごく普通の事件の処理をしていく姿を描いたもので、刑事事件をネタにしていてもありがちな「事件物」や「人生ドラマ」にならず、抑え気味の演出がとても気持ちいい感じを出していました。林隆三と高橋悦史が共同で事務所を出している弁護士で、伴はそこの調査員という役でした。
またCMではかなり長期間久光製薬のサロンパスのCMに出演していました。また彼は他のタレントさんをマネージングする能力も高かったようで昭和41〜43年には大手芸能プロダクションの芸映の社長も務めています。
彼は平和主義者で良心的徴兵忌避者であったらしく、徴兵検査にはきれいにお化粧して女装で出かけていき(さすが役者というところか)、彼を見た検査係官は「何だ、お前は?帰れ帰れ!」とまさに門前払いしたといいます。
また彼は1963年「あゆみの箱」を独力で設立し、ポリオ(いわゆる小児マヒ)にかかって苦しんでいる人たちの助けにと、街頭や劇場などで募金を呼びかけました。その輪はその後多くの人たちに広がっていき、この活動は現在でも続いています。
1981年10月26日死去。地元では彼を記念して時々映画祭などを実行しているようです。