上杉謙信(うえすぎけんしん,=長尾景虎,ながおかげとら)は享禄3年1月21日(1530.2.18)庚寅年.戊寅月.壬子日に春日山城(現在の上越市)で生まれました。年も月も干支が寅なので、それにちなんで虎千代の幼名をもらいます。(生まれた日は残念ながら寅日ではない)なお母の名前も虎御前です。また謙信は虎にちなんで、虎をお使いとする毘沙門天を終止信仰し、旗に「毘」の文字を書いていました。
さて上杉家といえば藤原一族の名門・関東管領を務める家柄で、一時は関東から越後まで広大な範囲を領していましたが、この頃は関東の領地をほとんど失い、越後方面だけをこの地区の守護代である長尾為景の力でかろうじて支えていました。この為景が景虎の父です。
しかしその為景が亡くなると、越後はかなり波瀾含みになります。後をついだ長尾晴景(景虎の兄)は病弱でなかなか領地全体に睨みがきかず、中越地区の拠点であった栃尾に弟(妹?)の景虎を派遣し、当地を管理する古志長尾氏の養子にして少しでも反乱勢力の動きを抑えようとしました。
ここで当時14歳の景虎は兄が思っていた以上の働きをし、本庄実乃らを従えてよく戦い、その地区を完全に長尾一族の管理下に置きました。すると越後内の武将たちの中には、景虎のほうが越後守護代にふさわしいのではないかとする声が上がり始めます。すると晴景に近い武将たちが緊張し始め、長尾家の内紛に発展するかとも思われました。しかしここで兄弟(兄妹?)で争われてはたまらない上杉家としては両者の調停を進め、結局争わずして晴景は病気療養のため引退することになり、景虎が長尾家を継ぐことになったのです。
この調停をしたのは上杉定実ですが、彼は本来は上杉家の人間ではありません。上杉家に適当な後継者がいなかったため、上条家出身の彼が上杉房能の養子となって一時的に上杉家を嗣いでいました。ところがこの定実が天文19年(1550)に亡くなり、またまた適当な後継者がいなかったため、景虎が足利将軍家の命により暫定的に越後国主の任を負います。
ここで房能のはとこに当たる上杉憲房の子の上杉憲政が一応関東管領を嗣いで関東方面にわずかとなった所領を持っていましたが、永禄元年(1558)とうとう支えきれずに景虎を頼って越後に逃げてきました。そこで景虎は憲政の一族の保護と上杉家の所領回復に努力する代わりに、上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けることになり、永禄4年閏3月16日、鎌倉の鶴岡八幡宮にてこれを受領。長尾景虎をあらため上杉政虎(うえすぎまさとら)を名乗ります。
以降、上杉の家督はのちに景虎の甥の景勝が嗣いで、その子孫が幕末まで保持することになります。元の藤原流上杉氏はこの先、歴史の舞台から退場します。なお長尾家は古代に活躍した東漢(やまとのあたい)氏の子孫といわれています。
なおさきほどから景虎=謙信を晴景の弟(妹?)と書いていますが、実は謙信については、昔から女性説も根強くあり、論拠を聞くとあながち妄説ともいえないように思われるので、それを考慮してこのような書き方をしております。巴御前などの例をあげるまでもなく、勇壮な女性は昔からいましたし、上杉神社に残っている謙信が着ていた服というのが、とても男性が着た服には見えないなどといった問題もあります。
さて話を戻してその後の景虎あらため上杉政虎の足跡を追ってみましょう。やや時間を戻して天文22年(1553)信濃の村上義清らが甲斐の武田晴信(信玄)に領地を奪われ越後に逃れてきます。当時武田は駿河の今川義元・関東の北条氏康との三国同盟を成立させ、南側が安定したので北信濃に進出しようとしていました。しかし強力な武田軍にその地域に出てこられると、越後まで危なくなってきます。そこで景虎は武田軍の北上を止めるため、同年8月自ら先頭に立って大量の軍を動員し、川中島(現長野市南部)に展開しました。
ここは犀川と千曲川が作る三角州地帯で交通の拠点です。ここを武田に抑えられてしまうと武田はいつでも越後領内に攻め入ることが可能ですし関東との連絡路も容易に断たれます。とはいってもここは甲府からもそう遠くない距離であり、武田としてもこんな場所に越後の拠点を作られてはたまりません。武田もここに兵力を集中させ、ここに第一回「川中島の戦い」が起きました。
もっとも「戦い」とはいうものの、第一回(1553),第二回(1555),第三回(1557)は実質的な戦闘は起きておらず両者にらみ合っただけで、最終的にはおとなしく両者軍を引いています。その間に景虎は北陸経由で2度(1553,1559)京都に行き、将軍家と接触したり天皇(後奈良・正親町)に拝謁したりして政治的な安定も図ります。
そして永禄4年(1561)8月、上杉政虎となった彼(彼女?)は川中島で第四回の戦いを行いました。これは「川中島の戦い」の中でも最大の決戦であり、両者多数の隠密も使って情報戦を繰り広げ、陽動作戦あり・目くらましあり、心理戦ありそして実戦闘も激しくありの総合戦となりました。武田晴信自身も負傷していますし、一説には晴信と政虎の一騎打ちもあったといいますが、それはどうでしょうか。ただそういうことが起きてもおかしくないほど、この戦いでは両者の軍勢は入り乱れた状態で戦っていました。
しかし結局この戦いも両者痛み分けで終了しています。そしてこの戦いの後で将軍足利義輝から一字もらい、政虎は輝虎と改名しています。いわば政虎の名前はほとんど第四回川中島の戦いのためにあったようなものともいえます。
武田との戦いが決着がつかないので、輝虎は武田を牽制したまま関東に軍を進め、北条氏康の勢力を削ぐのに腐心します。そして永禄7年には第五回の川中島の戦いが起きますがこれも武田勢が一時的に奪った城を奪回しただけで終了しています。しかしこの頃から、戦闘は頻繁に起きるのに特に領土が拡大する訳でもないことから離反する武将が相次ぎました。
その中、永禄11年(1568)武田・今川・北条の三国同盟が崩れてしまいました。今川と北条は甲斐との国境を封鎖し、翌年には足利将軍家の仲介で、上杉と北条の和議が成立。北条氏康の七男氏秀が輝虎の養子になり彼(彼女?)が9年前まで名乗っていた名である景虎を名乗ります。なお輝虎はそれ以前の永禄7年に甥の顕景あらため景勝を養子にしており、後継者としては彼の方を指名していました。しかし、この景虎(氏秀)の存在は、後に謙信が亡くなったあと、面倒な後継争いを起こすことになりました。
さて甲斐としては南方で今川・北条と対峙して国境を封鎖され、北方では上杉と以前から緊張関係にあるため、物資の補給が滞り始めます。中でも海を持たない甲斐は生命の維持に不可欠な塩を確保できずにひじょうに困りました。ここで今川は上杉にも武田との国境を封鎖して欲しいと依頼しますが、輝虎は「勝負は戦いで決着すべきものである」と言い、永禄12年(1569)には敢えて武田に塩を贈る粋な計らいもしていました。
そして元亀元年(1570)年12月、輝虎は法号・謙信を名乗ります(剃髪は4年後)。
この後、諸国の同盟関係はめまぐるしく変わります。北条との同盟はあっという間に破棄されて北条はまた武田と結び、元亀3年(1572)にはその同盟軍と上杉軍が利根川をはさんでにらみ合ったりします。この年は今度は織田信長と同盟し、信長は息子を養子にやる約束をします(但し実行されていない)。そして相変わらず関東攻略を図る一方でこの時期から盛んに越中方面にも進出。こちらの方は順調に攻略が進んで富山から能登までを手中にします。しかしこの付近で結果的に勢力範囲がぶつかってしまった信長との同盟が崩壊。謙信は信長と対立する毛利と同盟を結びます。
そして天正5年(1577)能登半島の七尾城の攻防により実際に織田勢力とぶつかりあうことになり、同年9月に湊川(現手取川,石川県美川町)で信長の軍と直接衝突。これを撃破しました。
そして翌年、北陸のほうが一段落したので再び関東攻略に移ろうとした所で病気に倒れます。天正6年3月13日(1578.4.19)春日山城で死去。享年49歳。