元亀4年(1573)4月12日、甲斐の武田信玄が上洛を目前にして亡くなりました。53歳でした。
武田は清和源氏の子孫です。新羅三郎義光の子の義晴が甲斐の武田村に入りここから武田一族が興っています。東北の南部氏、また支流の多い小笠原氏もこの武田の傍系です。信玄(晴信)は義晴から数えて18代目になります。
信玄は武田信虎の嫡子として大永元年(1521)11月3日に生まれました。幼名は太郎。16歳で元服。将軍・義晴から一時もらい晴信と名乗ります。天文10年(1541)に父を追放して甲斐国の主となりました。(この年、海野平を攻めて海野棟綱の領地を取得。海野に仕えていた真田幸隆は1545年より武田に従う)
当時日本は1467年の応仁の乱以降、国全体の統制が失われ群雄割拠の時代になっていましたが、この武田信玄やそのライバルであった上杉謙信(長尾景虎)あたりから、この状況を解消し、天下を統一しようという思想が出てきます。そのためには卓越した軍事力を掌握する必要がありました。
信玄は他国に大いに恐れられた騎馬隊を含め鉄壁の戦力を築き上げ、象徴として風林火山の旗を立てました。
疾如風 はやきこと風のごとし徐如林 しずかなること林のごとし侵略如火 おかすこと火のごとし不動如山 うごかざること山のごとし
孫子の中の一節です。信玄は政治的・軍事的な才能のみならず教養も高く、学芸方面の知識が豊富であったようです。ただし新しいことには概して疎かったともいいます。
信玄と同じ頃にやはり天下統一を志向しだした上杉謙信とは1553〜1564年の5度にわたって川中島の決戦を行い、謙信と信玄の一騎打ちまであったといいますが、決着は付きませんでした。
そうこうするうちに南の今川と衝突します。今川は将軍家・足利家に比較的近い関係にあり、今川義元も将軍家を中心に天下統一を志向していましたが1560年にその義元が桶狭間の戦いで尾張の小大名・織田信長に倒されるハプニングもありました。しかしその子の氏真は体制を立て直し、再起の機会を待っていました。
その今川氏真は1567年に甲斐と駿河の往来を禁止します。このため塩が甲斐に入ってこなくなって、本当に困りますが、ここで信玄のライバル上杉謙信が窮状を見かねて日本海の塩をプレゼント、危機を脱しました。信玄は1567年には娘のお松を信長の嫡子信忠と結婚させ、1568年には三河の徳川家康とも同盟を結んで今川に対抗しました。そしてその今川を破るのは1570年のことです。
しかし今川が倒れると、織田も徳川も今度は武田を脅威に感じます。両者は武田との同盟を破棄。連合して武田と睨み合う形になりました。そして元亀3年12月22日、両者は三方ヶ原の合戦で激突します。
結果は武田軍の勝利。家康も必死の奮戦を見せましたが老獪な信玄の采配の前になすすべもありませんでした。負けを悟った家康は自刃しようとしますが夏目次郎左右衛門が止め、家康を無理矢理馬に乗せて、その馬の尻を槍でつついて逃したといわれています。しかし信玄はこの奮戦した家康を敵ながら、あっぱれな武人であると高くかったともいいます。
しかし折角ここで家康を破ったにも関わらず、信玄は病に倒れてしまいました。いったん信州の駒場城まで引き返し、療養に努めますが、回復はおもわしくなく、とうとう4月12日の夜遅く、息を引き取りました。
死にあたって信玄は自分の死後のことを心配し、自分の死を3年間伏せよと遺言します。しかし、それが可能な時代ではなく、2年後の1575年の長篠、武田軍はリベンジに燃える織田・徳川連合軍に新兵器の銃の連射をくらって騎馬隊が壊滅。それを機会に家臣団が次々と離反し、武田家は滅亡しました。
(2001-04-11)