真田幸村(1567-1615)

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慶長20年(1615)5月7日、大阪夏の陣の最終決戦が行われ、徳川方を散々苦しめた真田幸村(正しくは信繁。幸村というのは信繁をモデルにした講談での呼び名....しかし分かりやすくするため以下仮に幸村と呼ぶ)も松平忠直の鉄砲頭・西尾久作により首を取られました。

大阪夏の陣は以前にも取り上げましたが、真田家について少し注目してみたいと思います。

真田家は元々信濃の出身で、真田幸村の祖父の真田幸隆の代に頭角を表してきました。はじめ海野平を拠点とする海野氏に仕えていましたが武田信玄の父の信虎が1541年海野氏を破ると、はじめ海野棟綱と共に逃れていましたが1545年信虎を追放して甲斐国主となった武田信玄の力量を見込んで、これに従いました。

しかしその信玄が上洛途中で死に、子の勝頼の代になると長篠の戦いで織田徳川の連合軍に敗れ、真田家当主の真田信綱も戦死してしまいました。真田家は弟の真田昌幸が継ぎ、織田に仕えます。(正確には織田の家臣滝川一益に従った)

ところが織田信長は本能寺に倒れますと、真田昌幸ははじめ徳川家康に従いましたが、後に長男の信幸を徳川方に残し、自分と次男の幸村は豊臣秀吉に付き従いました。これは次の天下が豊臣になるか徳川になるか分からないので、子供を双方に付かせれば、どちらかは生き残るであろうという、まさに小大名ならではの厳しい選択でした。

そして兄弟は関ヶ原・大阪冬の陣・夏の陣、と敵味方に分かれて戦い、結果幸村は戦死してしまいますが、信幸は昌幸の意図通り生き残り、沼田の地で明治の廃藩置県まで大名として家が存続しました。

戦国時代、天下を統一しようというほどまでの力量のない小さな大名はこうして、強そうな所、強そうな所に付き従って、生き延びていったのです。


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