千利休(1522-1591)

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千家流茶道の開祖とされる千利休(せいのりきゅう)は天正19年(1591)2月28日に秀吉の命により切腹しました。千家ではその1ヶ月後を命日としていますが、その「1月後」の解釈が表千家と裏千家で異なるため、表千家では3月27日、裏千家では3月28日に利休忌を行い、追善の茶会をします。

千利休は大永2年(1522)堺で生まれ、幼名を与四郎といいました。幼少から茶に親しみ、北向道陳・武野招鴎に茶道を習い、先人たちからも高い評価を受けて23歳の時宗易を名乗ります。

初め信長に仕え、信長の死後は秀吉に仕え重んじられました。秀吉も彼を天下一の茶人と褒め称え、茶以外のことでも色々と自分の相談相手にします。そして、天正13年には秀吉に従って宮中で茶会を催し、この時利休の名を受けます。

ところが突然天正19年2月13日、秀吉はいきなり利休に堺への退去を命じ、次いで26日には京都に呼び出して切腹を命じるのです。なぜ急にそのようなことになってしまったのかは謎になっています。

千家はその後紫野大徳寺にいた利休の孫千宗旦が還俗して家を再興し、その次男の宗守が武者小路千家、三男の宗左が表千家、四男の宗室が裏千家のそれぞれ祖となります。これが三千家です。裏千家の名前の起こりは宗室が父が家の裏庭に建てた隠居所を継いで始めたためで、表千家はそれに対する呼称です。また、武者小路千家は京都の武者小路に宗守が茶室を建てて始めた為その名があります。


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