天文18年2月24日、美濃の斎藤道三の娘、濃姫が尾張の織田信長に嫁ぎました。濃姫15歳、信長16歳でした。
斎藤道三は明応3年(1494)の生まれ。山城国の油売りの商人でしたが行商先の美濃で、守護・土岐頼芸に仕えることになり、頼芸に認められて重用され、どんどん出世していきます。そして天文7年(1538)守護代・斎藤氏をつぎ、天文11年には頼芸を追放して、美濃国の主となりました。
この時、追放された土岐頼芸が尾張の織田信秀(信長の父)を頼ったため、両者の間に戦いが起きていました。濃姫の輿入れは、信秀と道三の和議に付随するものとみられます。
濃姫は通称を帰蝶といい、生母は生母は明智光継の娘、小見の方です。天文4年(1535)の生まれ。光継は明智光秀とも近い親戚にあたるそうです。
この天文18年の時点で、織田信秀は尾張国内でかなり大きな勢力として急成長してきつつあったものの、まだ尾張統一にはほど遠い状態で、その息子の信長というと、現代の通説ではかなり問題児であったともいわれ、平手政秀が「信長の愚行を諫めて」切腹したのもこの4年後です。
にも関わらず、道三が大事な娘をそこに嫁にやったというのは隣国同士の政略結婚というレベルを超えて、信長に何か期すものがあったのかも知れません。あるいは当時、信長という人は父をも超えるかも知れない逸材として注目されていた可能性もあるでしょう。この年は信長は熱田神宮に参拝して「藤原信長」と署名した年でもあります。道三と信長は天文22年に直接会談しています。時代劇でよく取り上げられるシーンです。
また時代劇によく出てくるシーンとしては濃姫が信長に嫁いでいく時に道三が懐剣を渡し「信長はうつけ者とも聞く。もしそうだったらその刀で信長を刺して来い」というと、濃姫は「分かりました。しかしこの刀は(将来信長と道三が戦うことになって)父上を刺す刀になるかも知れませんよ」と答えたというものです。濃姫の気性の強さを象徴することとして取り上げられますが、戦国の武家の女性というのはそのくらいの強さが求められたでしょうし、また割り切っていたのでしょう。
道三はこの婚姻後、信長の尾張統一に協力して支援の兵を派遣したりもしています。そして永禄2(1559)年、信長は尾張の統一に成功しますが、それまで道三のほうは持ちこたえられませんでした。
道三は若い頃、土岐頼芸と矢の勝負をして勝ち、そのほうびとして頼芸の妻の三芳野を与えられていました。三芳野は妊娠中でしたが、こういう場合、生まれた子は道三の子ということになります。その子、斎藤義龍が道三を遺伝子上の父である土岐頼芸の仇として弘治2年(1556)戦いを挑んで来たのです。
信長は直ちに支援の兵を送るべく、濃姫に付き従ってきた美濃出身の家臣を道三のところに派遣します。しかし道三は「そんなことをしたら父と婿が共倒れするだけだ」として支援を拒否。静かに義龍の軍の前に散っていきました。信長はその道三の配慮に涙します。
そして尾張統一が完了し、直後の今川義元の侵攻を桶狭間の戦いの奇襲で倒してから、最初に信長が兵を向けたのが美濃でした。それは父親の道三を倒して国を奪った斎藤義龍を倒し、美濃の正統な後継者である濃姫のもとに美濃国を取り戻すという大義名分が立ったのです。しかしそれは信長にとって、本音でもあったでしょう。
この美濃攻めで信長は苦労しますが、2年後、天才戦略家・羽柴秀吉の奇策により墨俣に城を作ることに成功すると、そこを拠点に美濃領内を少しずつ侵略、永禄10年(1567)に完全に美濃の攻略を終了しました。10年がかりの事業でした。ここから信長の天下統一への戦いが本格化していきます。
そして10年後、天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀叛により織田信長は京都本能寺で49歳の生涯を閉じます。
この時濃姫は一説では安土城の留守を預かっていたものの明智秀満に攻められた時に日野へと逃れたとも、また一説では本能寺に信長とともに滞在していたものの、信長の命令により寺を出たともいいます。どちらも明智勢につかまり、その保護下に入る可能性が高いですが、後者の場合その確率はほぼ100%でしょう。むろん光秀は彼女を人質にして秀吉と交渉をするなどといったズルイことはできない性質ですから大丈夫でしょうが、やはり、前者の可能性のほうが高いかも知れません。
濃姫が亡くなったのはその光秀が倒れ、秀吉の天下が来て、その豊臣も敗れて徳川の世になった慶長17年(1612)7月9日です。本能寺の変の後、濃姫がどこで何をしていたのかはよく分かりませんが、他の戦国の武家の女性同様どこかの寺に身を寄せていたのでしょうか。享年78歳。