豊臣秀吉

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秀吉の誕生日はいくつかの説があります。その中でも天文5年(1536)丙申年の正月朔日丁巳日という、公卿補任の説と、天文6年(1537)丁酉年の2月6日丙辰日という、大村由己「関白任官記」による説が有名です。

1月1日生まれの人としては下記のような人がいます。

 一休禅師(1394),川上音二郎(1864),鳩山一郎(1883),埴谷雄高(1910),太田薫(1912),サリンジャー(1919),長門勇(1932),加藤一二三(1940),香山美子(1944),尾崎紀世彦(1945),Mr.マリック(1949),沢田亜矢子(1949),夢枕獏(1951),大友康平(1956),役所広司(1956),野呂一生(1957),ジミー大西(1964),増田明美(1964),北勝閧(1966),堂本光一(1979)

今年の1月1日に取り上げるのにふさわしい人として、一休禅師も考えたのですが、一休は以前にも取り上げていますから、ここは秀吉を取り上げてみましょう。

一休の場合は天皇の子供なので記録が残された可能性があることと、在野で生きたため特に崇める必要がなかったことから、本当に1月1日生まれの可能性は高いと思いますが、秀吉の場合は足軽の子供なので出生記録が残っていたとは思えないこと。一休とは逆に天下人となったので、権威付けする話が多数造られた可能性があることから、あまり1月1日説を信じる気にはなれません。

しかし彼が「猿」と呼ばれていたことから、申年生まれである可能性もかなりあると思います。

秀吉の幼名が「日吉丸」という説は昔からあるのですが、信憑性は必ずしも高くありません。信長が「猿」と呼んでいたことから後日、猿をお使いとする、日吉神社の申し子であったという話が生まれ、そこから日吉丸という名前が後世出てきた可能性があります。

生まれた場所についてはいづれも名古屋市内ですが、中村区中村町の常泉寺が建つ場所という説と同区中村中町の弥助屋敷跡という説があるようです。弥助は秀吉の父の名前です。

秀吉の父は足軽であったとも、元足軽の百姓であったともいいます。秀吉は12〜15歳頃に家を出て諸国を放浪したのち、今川義元配下の松下加兵衛之綱の下で足軽となりました。

しかしやがてここを色々あって辞し、故郷の尾張に戻ったのが恐らく18歳か20歳頃。この頃には既に木下藤吉郎の名前を使っていたようです。織田信長公に馬番として取り立てられますが、ある晩、例の草履取り事件が起きます。

その晩信長が夜遅く外出する様子がありました。草履を用意しなければなりませんが、仮眠していた草履取りの係を起こそうとすると「今のような時間に殿様が出かける訳ないじゃないか」といって寝てしまいます。そこでやむを得ず藤吉郎が行って、信長の草履を出して来ますが、冬の寒い夜。草履は冷えています。こんな冷たい草履を殿様に履いてもらうのは申し訳ない。

若き藤吉郎は純粋な気持ちでそう思ったのでしょう。草履を懐に入れて暖め、いよいよ殿様がやってくる様子を聞いてから取り出して揃えて置きました。

信長は藤吉郎を見るとめざとく「猿よ、お前、いつからわしの草履取りになったのだ」と聞きます。下々の者の役目をしっかり把握していた信長は大したものです。

藤吉郎は本来の草履取り係がお咎めを受けないよう、うまく取り繕うのですが、草履に足を入れた信長の顔はたちまち曇りました。

「これ、猿。きさま、わしの草履に腰を降ろしておったであろう?草履が暖かいぞ」といいます。

すると藤吉郎はそういう展開は考えていなかったためびっくりして「とんでもありません。寒いのに冷たい草履ではと思い、私が懐に入れて暖めておいたものです」といい、服の懐を開けて、草履の土がまだ付いているところをお見せしました。すると信長はそれを一瞥しただけで、他何も言わず出発しました。

しかし翌日、藤吉郎を草履取りに任命する旨、お沙汰がありました。

若き日の藤吉郎のエピソードは多数あります。長い槍と短い槍ではどちらが有利かという論争になった時に、多くが短い槍の方が振り回しやすくて良いという中、ひとり「長い槍が遠くから攻撃できて有利だ」と主張。それではというので足軽を10人くらいずつ預けて一週間ほど訓練させ、試合をさせることになりました。

相手が必死で練習させていた中、藤吉郎は足軽たちにのんびりと適当に練習させ、試合も適当にやればいいさ、といった言い方をして、足軽たちと歓談をして一週間を過ごしました。

結果はわずか一週間で詰め込み方式の訓練を受けて混乱の極致にある短槍隊より、精神的な余裕のある藤吉郎の長槍隊の方が、大将の指示に対して的確に動き、藤吉郎のみごとな勝利。槍の長短論争とは無関係に、信長は藤吉郎について、戦略家として「使える」、ということを確信したのでした。

1563年、藤吉郎は清洲城の修築工事の指揮を買って出ます。この工事は前任者がずいぶん時間を掛けても、なかなか進捗が思わしくなかったものです。

藤吉郎はいつもの調子で「自分なら一週間で直してみせる」と豪語。信長も又いつもの調子で「だったらやってみろ」と言って任せます。

藤吉郎は職人たちを集めると、10組に分けました。そして100間(180m)ある城壁を10間ずつに分け、それぞれの担当として「これから競争で修復作業をするように。一番に仕上げた組には殿様からたくさんご褒美が出るぞ」と言い渡します。

職人たちも、180mは長い距離に見えますが、18mなら、頑張れば何とか一週間でできそうな気がします。職人達は昼夜を徹して働き続け、やがてどの組も一週間後、ほぼ修復を完成させました。

その一週間後「いくら猿でも一週間では無理だったろう」と思い、様子を見に来た信長は、みごとに修復の終わった城壁と、疲れ切ってあちこちに倒れて寝転がっている職人たちの群を見ます。そして藤吉郎は「殿様。職人たちの頑張りのおかげで修復が終わりました。どうか、この者たちに充分なご褒美を」と言ったのでした。

1566年(永禄9年)は藤吉郎の名前が初めて歴史に出てくる年です。

この頃、信長は美濃の斎藤と対立していました。

信長の妻の濃姫は斎藤道三の娘ですが、元々道三は諸国を回っていた油売り商人で、前国主斎藤利良に重用されて美濃国で出世。やがて利良を退けて、自らが国主となります。いわば道三は秀吉の先駆者です。道三は若い頃、利良から妻を譲られていたのですがその妻が産んだ、本来は利良の子供が斎藤義龍です。

斎藤義龍は成人後、道三(形式的には実父)を父(形式的には義理の祖父)の仇として狙い、やがてこれを倒して美濃国主になりました。そういうわけで、信長は斎藤道三とは親戚関係なのですが、当時の国主斎藤義龍および息子の義興とは微妙な関係にありました。

織田は美濃を牽制するため、長良川の三角州・墨俣に城を築きたいと考えていました。そのため何度も工作兵を派遣しますが、目の前は斎藤の勢力下。少し築くと即妨害が入り、崩されてしまいます。

この時また藤吉郎は「自分が一週間で城を建てる」と言い切ります。そして信長も彼なら何とかするかも知れないと思い、この大仕事を任せるのです。

藤吉郎は信長から任された兵を連れて墨俣に赴くと、わざとのんびりと基礎工事などをやらせました。それを見た斎藤配下の監視兵も「なんだあれは。あのペースでは出来るのはいつのことか分からないぞ。人材がいなくなってかなり出来の悪い奴が派遣されてきたものと見える。もう少ししてから崩してやった方がいいだろう」と、こちらものんびり眺めていました。

しかし藤吉郎は見えない所で動いていました。

旧知の土着士族(要するに山賊)の蜂須賀小六(のち徳島城主。彼が徳島に入る時に阿波踊りが生まれたという)に協力を求め、長良川の上流、木曽の山中で城の骨組みを部品単位で組み立てていたのです。

そして一週間後の夜、おあつらえ向きに雨が降っていました。闇に紛れて、蜂須賀隊が組み上げた城の骨格部品をいかだに乗せて上流から運んで来ます。そして全員総出で、雨の音に紛れていそぎ組み上げてしまいます。

朝、太陽が昇った時、美濃の兵士たちの前に魔法のように城が姿を見せました。今でいえば、部品を組み立ててつくるパネル工法のようなものです。秀吉という人はほんとうに土木建築関係に天才的な発想を持っていました。

慌てて美濃の兵士が攻撃を掛けますが、城が出来てしまうと、そう簡単には落とせません。かくして、織田信長は美濃に対して、大きなくさびを打ち込むことができました。

そしてこの功績により藤吉郎は信長の武将として取り上げられ、恐れ多くも丹羽長秀と柴田勝家から一文字ずつもらい羽柴秀吉と名乗ることとなります。

柴田勝家もまさかこの時はこんな若造と将来天下分け目の決戦をする羽目になるとは思いも寄らなかったでしょう。

翌年美濃は織田のものとなります。

このあと秀吉は朝倉・浅井征伐に従軍します。朝倉がなかなか落ちないでいると、信長は朝倉を支援していた比叡山の攻撃を決断します。僧坊を焼き討ちし中にいる者は女子供構わず全員殺害し、一人も逃がすなという厳命を各武将に与えますが、若き秀吉は初めて信長の命令に反し、逃げてくる女性と子供だけを見ない振りをして通してやりました。他の武将が守る出入り口から逃れようとした者は全員殺されています。この件について秀吉が信長から特にとがめ立てされた形跡はありません。

しかしその秀吉もこれに続く長島本願寺との戦いでは女子供構わず射殺を命じています。すっかり世俗的になっていた比叡山と、全員が熱狂的な信者であり、生かしておけば後で禍の元になる可能性が強い浄土信徒との差が、そこにあるのでしょうか。

比叡山・長島本願寺を落とし、次いで石山本願寺とは和議を成立させますといよいよ朝倉・浅井も孤立していきます。信長はここを一気に攻め立てて、ついに滅亡させます。秀吉はこの戦いでも活躍し、浅井の遺領を与えられました。

一方その頃甲斐の武田勝頼が上洛を狙っていました。秀吉は信長に従って長篠に向かいます。この時の作戦は秀吉の提案によるものとの説もありますが、そこまではちょっと分かりません。

鉄砲隊を3人一組に分けて、一人が撃ち終わったら下がり次の者が出て撃つ。下がったものは急ぎ銃身を掃除してまた弾薬を詰めて前の者の後ろに付く。

当時の銃は連射がきかなかった(リボルバーの発明は19世紀)ため、それまでは「銃は撃った後を狙え」と言われていたのですが、作戦によって実質的に連射状態にし、銃の力を初めて有効利用しました。

これにより超強力を誇った天下の武田騎馬隊が壊滅してしまいます。世に名高い「長篠の戦い」です。これにより武田は滅亡への道をたどります。

信長は秀吉に中国攻めを命じます。これは当時毛利三本の矢の勢力下です。秀吉はまず1578年上月城を攻略、落城させ、野口城、三木城、と攻めます。三木城(兵庫県)は2年間にもわたる包囲作戦の後に落としました。

この頃、秀吉に長年付き従ってきた天才軍師・竹中半兵衛が亡くなり、後任に黒田官兵衛(如水。福岡黒田藩初代藩主長政の父)を取り立てました。

続けて秀吉が攻略したのは吉川経家のいる鳥取城です。ここも秀吉は城の周囲を固めて兵糧責めにします。これは後に「鳥取の渇泣かし」と言われる過酷なものでした。この城は半年で落ちました。

そして次に秀吉が手がけたのは備中高松城。ここは今度は黒田官兵衛の意見で鳥取とは逆に水責めにしました。

水に囲まれた高松城で清水宗治が頑張っている所に毛利方の援軍を率いた小早川隆景と吉川元春が到着しますが、手が出せません。しかし秀吉は高松城を落としても、毛利の大軍と戦う必要があるため、信長に援軍の要請を出します。

折しも、そのころ長篠の戦いで弱体化した武田を倒した徳川家康が支援してもらったお礼にと織田信長を訪問していました。家康の接待をしていたのは明智光秀ですが、家康に出した鯛が腐っていたとして、光秀を叱りお役御免を言い渡します。しかしそこに秀吉から援軍の要請が到着。信長は今叱ったばかりの光秀を呼びつけ、ただちに中国へ向かって秀吉を支援するよう命じました。

家康は武田を裏切って家康の元に走った穴山梅雪とともに、信長の元を離れ浪速見物に出かけました。一方の信長は京都に向かい、本能寺に宿しました。このとき、信長が連れていた兵はわずか数十人でした。

秀吉と光秀というのは、信長が最も信頼していた部下であり、また最もひどくコキ使われた部下でもあります。光秀は以前使えていた君主の頭蓋骨で作った杯で酒を飲むことを強要されたこともありました。また光秀の母が敵方との和睦で人質になってくれた時、信長が相手方の武将を斬ったため、彼の母は彼が見ている前で殺害されたということもあります。

この時、光秀の中で最後の1本の糸が切れてしまったのでしょう。

光秀は大軍を率いて出発したものの、中国へは向かわず、京都に入って本能寺の信長を襲撃します。「本能寺の変」です。信長の警護兵も多勢に無勢でどうすることもできず、森蘭丸はじめ全員討ち死に。信長は自刃して49歳の生涯を閉じました。信長の長男の信忠も運命を共にしました。

光秀は自らが次の天下人となると宣言。毛利に自分と協力しないかと密使を派遣しますが、その密使が秀吉の兵に捕らえられました。この密使を捕らえたことが、秀吉のその後の運命を大きく転換することになります。

信長の死を知って愕然とする秀吉ですが、何とかしなければならない。特に光秀はすぐにも倒さなければならないと考えました。

清水との交渉をしていた安国寺恵瓊(のち関ヶ原の戦いで捕らえられ処刑)にうまくさとられないように和議の条件を緩めると伝え、清水もそれを呑んで和睦。清水宗治が腹を切って将兵たちは解放されました。毛利方とも正式に和睦が成立。

そして和睦が成立すると同時に秀吉は軍勢を急ぎ大坂へ戻しました。

秀吉の軍が慌ただしく去った直後に毛利方にも信長公死すとの報が入ります。だまされたと知って怒り追撃しようとする吉川元春を、小早川隆景が「和議は和議だ」と言って引き留めます。おかげで秀吉は背後の心配をせずに次の戦いに集中することができました。

一方北陸で戦っていた柴田勝家はちょうど戦いに勝ったところでした。しかし秀吉のように和議したのでなくなまじ戦って勝っていたため、残党による攻撃を警戒して、動くに動けませんでした。

もう一人、光秀に対抗できる量の兵を動かすことができたのは徳川家康でした。しかし彼は大坂見物に行っていて、その途中で信長の死を知ります。彼は山賊が出ることも予想される伊賀の山の中を、服部半蔵(柘植三之丞との説もあり)らの伊賀忍者に助けられて急ぎ通過。三河に戻って軍備を整備して京都に向かいますが、その時は既に秀吉が事を決していました。

なお同行していた穴山梅雪は家康の行動に疑念を抱いて別行動で伊賀山中を越えようとし、山賊に襲われて命を落としました。

光秀は信長を倒すと急ぎ各方面に協力を求める書状を送りました。その中の毛利に宛てた密書が秀吉の兵に見つかり、秀吉を動かすことになります。

筒井順慶ははじめ光秀に呼応しようとしますが、光秀より早く、秀吉が戻ってきたことを知りました。すると彼はこの戦いは絶対秀吉が勝つとにらみ、待ち合わせの場所「洞ヶ峠」で光秀に待ちぼうけを食わせてしまいました。

そして光秀が秀吉の帰着を知った時、戦いの鍵を握る戦略地「天王山」は既に秀吉の配下の一隊が占領していました。光秀はなんとかそこを奪おうとしますが失敗。結局兵が総崩れになって、光秀は逃亡。竹藪の中を通っていた時、武具を売り飛ばすことを目的とした土賊に襲われて、あえなく命を落としてしまいます。

こうして「山崎の戦い」はあっけなく勝負が付き、光秀の「十日天下」は終わりを告げました。

戦いが終わるとやがて信長の主立った武将が集まり、このあとをどうするかということを話し合います。

この時、信長の三男信孝を推す柴田勝家に対して、秀吉は長男信忠の遺児・三法師を推します。そして結局は実際に光秀を倒した者の意見の重さで、秀吉は織田家の後継としてまだ子供の三法師を据えることに成功。実質的に信長の後継者となりました。

柴田勝家はやがて秀吉と勝負せざるを得ないことを確信しながら領地の北陸に退きます。そして翌年の4月。両者は琵琶湖北岸で激突しました。「賤ヶ岳の戦い」です。

この戦いで秀吉は加藤清正(のち熊本藩主)ら「賤ヶ岳七本槍」の活躍で勝利。この時、両者から支援を頼まれた前田利家は、両方に義理があるため、一応兵は出したものの戦わずに撤退するという微妙なことをして、結果的に秀吉に勝利をもたらしました。

このあと秀吉は更に四国を平定し、これにより関白の地位を獲得。名実共に天下人となり、豊臣姓を名乗ります。そして更に九州を平定したあと、徳川家康の協力のもと関東の北条を落とし、その故地を家康に与え、北陸の前田と並ぶ、この強力なライバルを関東に遠ざけました。

1591年、秀吉は関白の職を養子の秀次に譲り自らは太閤と称しました。

この時期が秀吉にとって一番良い時期であったのでしょう。

このあと秀吉は更に朝鮮半島まで支配下に置こうと佐賀県の名護屋城を拠点にして朝鮮出兵しますが、かなり向こうに損害を与えたものの、大きな戦果をあげるには至りませんでした。なお、この時朝鮮半島から強制連行してきた陶工たちにより佐賀県地方に陶磁器の文化が生まれました。現在の有田焼につながる流れです。

そして1594年自分に秀頼という実子が生まれると秀次がうとましく思われ、これを殺害してしまいます。妻や子供たち数十人も一緒に殺されてしまいました。命令された兵たちは必死で助命嘆願する女たちを、「恨むなら太閤を恨んでくれ」とこちらも半ば悲愴な声を上げながら斬ったといいます。

秀吉が行った大きなイベントで北野茶会と醍醐花見があります。

北野茶会は1586年。賤ヶ岳の戦いの3年後。家康との仲も良好で、九州征伐の直前くらいの時期。みなが新しい庶民出身の天下人に多くの期待を寄せていた時期。この茶会には誰でも参加することができ、大いに盛り上がりました。

醍醐花見は1597年および1598年。朝鮮出兵の後。秀次も既に処刑されていて亡く、厳戒態勢の中で、秀吉の妻子たちや、重臣らのみの参加で行われています。

このふたつのイベントの状況の差がそのまま秀吉を人々がどう思っていたかを表しています。

そしてその1598年9月18日没。

その後継をめぐっては、実子の秀頼とその母淀君、秀吉の忠実な部下である石田三成、北陸の前田利家、関東の徳川家康、秀吉の正妻北政所ねね、ねねの甥である小早川秀秋らの間に微妙な関係をもたらすことになります。

結果的には秀頼・淀君と石田三成が結び、一方家康は北政所・小早川秀秋と結び、前田はあくまで中立を保ちました。

そしてやがて徳川の天下へと世は流れていきます。関ヶ原の戦いは2年後です。


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