仲哀天皇

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日本書紀によれば第14代天皇の仲哀天皇は1月11日に即位したとされています。

仲哀天皇は「ヤマトタケル」と呼ばれた小碓皇子の子供です。

小碓皇子は例の女装して近づいて倒した九州の熊襲梟帥(クマソタケル)他出雲征伐・関東征伐など、幾度もの遠征をこなして、大和朝廷の勢力範囲を拡大します。しかし最後は伊吹山に勢力を持っていた豪族との戦いに敗れて名古屋の地で亡くなります。

そのため皇位はいったん小碓皇子の弟の成務天皇に引き継がれますが、この成務天皇に関する記事はひじょうに少ないので、恐らく短期間で亡くなられたのではないかと思われます。そして皇位は小碓皇子の系統に戻されて仲哀天皇の即位となったものと思われます。

仲哀天皇の記事も日本書紀では少なく、九州征伐に出かけていて、福岡県の香椎宮の地で急逝したとされています。しかし民間には仲哀天皇に関する伝説はけっこうあちこちに残されているようです。例えば下関市の忌宮神社に伝わる「数方庭」の起源は、朝鮮からやって来た敵と仲哀天皇及び皇子たちが戦ったときの様子であるとされています。

この仲哀天皇の皇后が、有名な神功皇后(じんぐうこうごう)です。神功皇后は日本書紀では事実上天皇扱いで、神功皇后の巻が1つ設けられています。また一部の文献では彼女を「天皇」と記しているものもありますが、現代では公式には天皇の代数には加えられていません。

仲哀天皇が亡くなったあと神功皇后は武内宿禰(たけうちのすくね)とともに朝鮮に出兵しているのですが、これが恐らく好太王碑に記されているA.D.391年の戦役に相当するのではないかと思われます。従って、仲哀天皇は385-390年頃の人なのではないかと推測されます。

現代日本の歴史学者はこの神功皇后の子供の応神天皇以降についてのみ実在を認めています。この応神天皇は日本書紀によれば神功皇后が朝鮮から戻ってきてから福岡県の宇美の地(現在の宇美八幡)で生まれたとされています。

応神天皇の孫の履中天皇が恐らく「倭の五王の讃」ではないかと言う人は多くその讃が東晋に使者を送ったのが413年ですので、そこから逆算すると応神天皇は370年頃の人、つまり350年頃の生まれという計算になり、すると仲哀天皇は340年頃に活動した人という計算になります。その場合、神功皇后の朝鮮出兵は、391年ではなく、朝鮮の三国史記に記されてる346年の倭人来襲に相当する可能性もあります。(すると369年の銘のある百済から贈られた七支刀−石上神宮蔵−と年代も合う)

このあたりの計算は色々な人が色々な立場で行っていますので、ここではこの程度にしておきますが、要するに、仲哀天皇はいづれにしても4世紀半ばから後半頃の天皇と考えてよいものと思われます。


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