崇神天皇

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崇神天皇の即位は甲申の年1月13日と日本書紀に記されています。

日本書紀は「初めて国を治めた天皇」という天皇を2人挙げています。一人は初代天皇の神武天皇、もう一人はこの第10代天皇の崇神天皇です。

但し、両者の書き方は微妙に違います。神武天皇では「古語に『初めて天下を治められた天皇』という」と伝聞形で書いているのに対し、崇神天皇については「人民の戸籍を作り課役を命じ、物は豊かで天下は平穏であった。そこで天皇を誉め讃えて『初めて国を治めた天皇』という」としています。

これは推定するとこういうことだと思います。

神武は天皇家のはるか先祖に九州から大和に移動してきて朝廷の基盤を作った偉大な王がいたのを伝説にもとづいて記述したもの。これに対して、崇神はそれより恐らく120〜130年ほど後に大和を中心にして大きな勢力を持ち、全国ににらみを利かせる大王が出現したことを記述したものではないでしょうか。

それ故に神武と崇神の間の8代は記紀共にほぼ名前のみの記述になってしまったのでしょう。特に9代開化天皇、8代孝元天皇、7代孝霊天皇、といった名前はまさに崇神天皇を基準として付けられた名前という感じです。

日本書紀上の1年を太陽暦の1年と解釈しますと、崇神天皇の即位はBC97年になってしまいますが、諸研究家の推定によれば実際には340年±30年頃のことのようです。

例えば先日の朝鮮との戦役記録から仲哀天皇を380年代後半に活動した天皇と考える流儀では、成務天皇は短期間と見て景行天皇・ヤマトタケルの時代が380年前後、すると垂仁天皇が360-370年くらいになって、崇神天皇は「短命であった(日本書紀垂仁天皇25年)」という記述があるので、360年前後という計算になります。

また日本書紀の記述による天皇の長寿の謎は「年」の長さが現在とは違っていたからであるという貝田禎造氏の説では崇神天皇の年代は315〜332年と計算されています。また干支に注目して古代天皇の年代を推測した末松保和氏の計算では崇神天皇は318年没としています。また日本書紀の空白年次をカットして古代天皇の年代を推測した笠井倭人氏の計算では崇神天皇元年を301年辛酉の年としています。

これらの文献研究の立場からの推定に対して、考古学的な立場から研究をした斉藤忠氏は崇神天皇の陵の年代を考古学的に研究して、4世紀後半に作られたものと推定しています。その場合崇神天皇の没年は最低でも360年頃になります。斉藤氏の研究の重要性はもうひとつあり、氏の研究では崇神天皇陵よりも古い年代の陵があることから、崇神天皇以前にも天皇はいたのではないかとしています。

さて、崇神天皇の時代、四道将軍という、この政権を支える大将軍がいたことが記紀には記されています。

・北陸に大彦(おおひこ)・東海に武渟川別(武沼河別,たけぬまかわのわけ)・丹波に日子坐(ひこいます)あるいは道主(みちのうし)・西海に吉備津彦(きびつひこ)

北陸(越の国)に派遣された大彦は孝元天皇の子。東海に派遣された武渟川別はその大彦の子です。二人が日本海側と太平洋側から兵を進めて、両者が落ち合った地が「会津」です。武渟川別の子孫からは、陰陽師として有名な安倍晴明などが出ています。吉備津彦は桃太郎のモデルと言われる人です。吉備津彦の名前は古事記側には出ておらず、古事記では将軍は三人になっています。吉備津彦はむしろ吉備・出雲文化圏の王で大和朝廷と友好関係にあったのかも知れません。

丹波に派遣されたのは古事記では開化天皇の子の日子坐になっていますが、日本書紀では日子坐の子の道主になっています。実際には親子で任務を果たしていたのでしょう。この親子は氷室冴子さんの「銀の海金の大地」でも重要人物になっていますが、氷室氏が推察しているように、この日子坐という人物はこの時代、かなり重要な位置にあったようです。

彼は開化天皇の子ですから、崇神天皇と異母兄弟にあたります。そして彼と大闇見戸売(おおくらみとめ)との間の姫である狭穂姫(さほひめ)が垂仁天皇の皇后になっています。そしてこの狭穂姫が兄の反乱事件に関連して亡くなった後、代って垂仁天皇の皇后になったのは、道主の娘の日葉酢媛(ひばすひめ)です。

古事記において、この日子坐(ひこいます)の一族に対する記述の多さは異常なほどで、この一族が非常に大きな力を持っていたことを伺わせます。氷室氏はこの日子坐こそが日本を作った人物ではないかと推察しているようですが、この推察はかなり当たっているのではないかと私も思います。聖徳太子・中大兄皇子・藤原一族などがやったように、日子坐も崇神天皇という象徴的な王を立てて、実際の政治は彼が動かしていたのではないか、などという大胆な推察もしたくなってきます。

大闇見戸売というのは、氷室氏も推定しているように「見えないものを見る巫女」という意味で、力の強い巫女であったと考えられます。またその娘の「さほ姫」というのも水の神に仕える巫女にしばしば付けられる名前です。崇神天皇・開化天皇の時代にこの政権が大きく勢力をのばす背景には、そういった巫女たちの呪術的な力も相当あったのではないかということも推察されます。

時代の流れを追いかけていくと、崇神天皇・垂仁天皇の2代で福島県から広島県付近まで勢力を拡大したあと、垂仁天皇の子供の景行天皇の時代に今度はヤマトタケルが出て、九州・出雲・関東に遠征します。そしてヤマトタケルの嫁にあたる神功皇后が朝鮮半島にまで兵を進め、その神功皇后の子の応神天皇が畿内で安定政権の樹立に成功します。崇神天皇から応神天皇までは大和朝廷の戦いの歴史であり、「初めて国を治めた天皇」が「和国に君臨する大王」に成長する記録でもあります。


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