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聖徳太子(574-622)
推古天皇30年(622)2月22日、聖徳太子が斑鳩宮で薨去しました。(上宮聖徳 法王帝説の日付。日本書紀では推古天皇29年2月5日の薨去とされる) 聖徳太子は上宮聖徳法王帝説では敏達天皇3年、聖徳太子伝略では同元年の 生まれとされています。日本書紀によれば母の穴穂部間人皇女が厩(うまや) の前で産気づいて皇子を産み落としたため、厩戸(うまやど)皇子と呼ばれた とのこと。父は敏達帝の弟の豊日皇子(後の用明天皇)です。以下一応帝説の ほうの誕生年を採用して解説します。 なお下記は昨年の9月4日版にも掲載した系図ですが再掲しておきます。 (当幅のフォントで見て下さい) 蘇我稲目 継体天皇 | | +−−+−−+ +−+−−+ | | | | | 小姉君===============欽 | | | 蘇我稲目 明 宣化天皇 蘇我馬子 | | 天 | | | 堅塩姫======皇====石姫 | | | | +−+−+ +−−+−−+ +−−+−−+ | | | | | | | | | | | | |河上 崇峻 穴穂部 間人 用明 桜井 推古 敏達 | | 娘==天皇 皇子 皇女=天皇 皇子 天皇=天皇====広姫 | | | | | | |刀自古==========聖徳太子 | 貝鮹姫 彦人皇子 | | |(聖徳太子妃) | 蘇我毛人 山背皇子 | +−−+−+ | 吉備姫王===茅渟王 | 蘇我入鹿 | | +−−−−−+−+ | | | | 孝徳天皇 斉明天皇=====舒明天皇 | 天智天皇・天武天皇 厩戸皇子は14歳の時に蘇我と物部の戦争に参戦。劣勢になっていたところを 急ぎ白木で四天王の像を彫り、それを掲げて先頭に立って戦いました。それ により蘇我軍は士気を回復、物部を倒すことができました。聖徳太子はこれ に感謝して、後に大阪に四天王寺を建立します。これは現存する最も古い お寺です。 この蘇我・物部戦争の結果を受けて即位した崇峻天皇は5年で倒れますが、 その後は当然、厩戸皇子が天皇の位に就く番でした。しかし皇子は即位せず 代わりに伯母の額田部皇女(豊御食炊屋姫)を天皇に立てて、自らは摂政と なって政治を執りました。 聖徳太子の治世に日本という国の政治体制の基盤が築かれたといっても過言 ではありません。十七条憲法を定めて天皇が日本全体の支配者であることを http://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/17kenpo.htm 宣言すると共に、冠位十二階を定めて身分の上下を制度として明確にし、又 その地位は天皇の意志に基づくことも明確にしました。ここにおいて、日本 は「天皇を中心に豪族たちが集結してなんとなく統治されている地域」から 「天皇が統治する独立国」に変身したといっても良いでしょう。 蘇我物部戦争で物部が滅び、崇峻天皇の失脚でそれを支えていた大伴も弱り、 中臣はまだ充分な力を付けていなかったこの時期、蘇我の卓越した軍事力が この大改革を抵抗なく各方面に受け入れさせたのでしょう。ただし、本当に 各豪族が天皇に服従するようになるのは壬申の乱以降の天武持統朝の時代で あるともいいます。しかし種を蒔いたのは聖徳太子です。 また聖徳太子はそれまでの朝鮮中心の外交方針を改め、中国と直接交渉する ため、腹心の小野妹子を隋に派遣し、煬帝に面会して返書をもらってくるこ とに成功します。これで中国の進んだ文化が直接日本に入ってくるようにな りました。小野妹子は2度にわたって隋に赴いています。(中国側の記録で は、この最初の遣隋使とされる607年の前にも1度使節が来ている。準備使節 の類か?) また聖徳太子は仏教を重視した蘇我の流れを更に押し進め、自ら仏典の講釈 をするなど仏教に深い理解を示し、義父でもある蘇我馬子とともに四天王寺 や法興寺、また法隆寺の元となる寺などを造りました。 昨日法隆寺の五重塔の支柱が現在歴史上の定説として法隆寺が建立されたと されている年代より100年も古い594年(推古2年)であったことが明らかになっ たとの報道がありました。実際その頃から塔の建立の準備も進めていたので しょう。この聖徳太子に認められて、玉虫厨子などを制作した天才仏師が 司馬鞍作止利(とり)です。司馬一族は秦河勝らの秦一族と並ぶ、聖徳太子の ブレーンのようです。日本最初の出家者もこの止利の叔母です。 聖徳太子の主な活動期間は610年頃までで、その後は政治は蘇我馬子に任せて 自らは仏教の世界にのめりこみ、瞑想にふけることが多かったともいいます。 そして推古天皇が亡くなる前に死去し、結局自ら皇位にあがることはありま せんでした。 聖徳太子の妃は多数いたようですが、その中の主な人が4人います。まずは この人が一応正妃ということになるかと思いますが推古天皇の娘の貝蛸皇女。 ただし、この人は早くに亡くなったと思われ、推古天皇は後に孫の橘女王を 太子と結婚させています。 貝蛸皇女と並んで重要なのが蘇我馬子の娘で蘇我毛人の同母妹である刀自古 郎女(とじこのいらつめ)です。太子は貝蛸と刀自古という二人の妃による 姻戚関係で推古天皇・蘇我馬子の両方と密接な関係を維持し、強力な政権を 確立していたものと思われます。刀自古は推古天皇没後に次期天皇候補に あがった山背(やましろ)皇子の母です。 そして4人目の妃で、聖徳太子が最も愛したと伝えられるのが膳部菩岐岐美 郎女(ほききみのいらつめ)です。聖徳太子の崇敬者である膳部傾人の養女と いうことになっているのですが、これは彼女が身分の低い家の娘であった為 皇子とそのまま結婚するわけには行かず、膳部傾人に頼んで養女にして貰い 結婚したといわれます。 そしてこの菩岐岐美姫は聖徳太子とほぼ同時に亡くなっています。帝説では 21日に姫が亡くなり、22日に太子が亡くなっています。最愛の姫がなくなっ たことで精神的な緊張の糸が切れてしまい、太子も力つきてしまったのでは ないかとも言われています。(逆に太子が亡くなった翌日に姫が亡くなった という説もあるようです)
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