光仁天皇(709-781)

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のちに光仁天皇となる白壁王は和銅2年(709)の10月13日に生まれました。王は天智天皇の孫です。

王が生まれたのは元明天皇(持統天皇の妹・文武天皇の母)の時代。文武天皇は持統天皇が多くの犠牲を払い、満を持して皇位に付けた皇孫ですが25歳の若さで亡くなってしまい、その皇子の首皇子(後の聖武天皇,701-756)はまだ7歳。とても天皇にはできませんので先帝の母である元明天皇(661-721)が中継ぎの天皇として皇位にあがっていました。元明天皇は和銅8年(715)には高齢を理由に首皇子の姉の氷高皇女(元正天皇,680-748)に譲位、首皇子が成人するまでショートリリーフを務めました。

                        高野新笠‖   5049 ‖―――桓武天皇+――――――――施基親王――光仁天皇(白壁王)| 43     44       ‖     +―元明天皇 +元正天皇 犬養広‖―他戸親王35,37    38   |41   ‖―+ 42    ‖ ‖     斉明天皇 +天智天皇+持統天皇‖ +文武天皇 45‖―井上内親王 ‖――+    40 ‖―草壁皇子  ‖―聖武天皇      舒明天皇 +――――天武天皇      ‖   ‖ 46,48    34                +―藤原宮子 ‖―称徳天皇(阿倍内親王)藤原鎌足――藤原不比等―+  (*1)  ‖       +――――藤原安宿媛(光明子) |              +―藤原宇合―藤原良継

その聖武天皇の時代に実際に政治を動かしていたのは病弱な天皇よりもむしろ藤原不比等が亡くなった後の事実上の藤原家のリーダー格で「藤三郎」の異名を持つ光明皇后で、その側近であったのが吉備真備らです。皇后は727年に皇子基(もとい)王を産み生後すぐに立太子させていますが翌年死去。同年に夫人の県犬養広刀自が安積皇子(上記系図の井上内親王の実弟)を産むのですが藤原家はこの皇子の存在を黙殺します。そして基王の死により後継天皇として急浮上した長屋王(親王であったとも。先の太政大臣・高市皇子の子供)を謀反の疑いを掛けて殺害(長屋王の変,729)、天平10年に基王の同母姉である阿倍内親王を皇太子に立てるというまた強引な処置がとられます。

 (*1)聖武天皇の母・宮子は実際には不比等の養女であるとする説がある。つまり聖武天皇は本当は不比等の血を引いておらず、そのため、不比等直系の光明皇后に頭が上がらなかったとも言われる。

天平12年(740)に光明皇后中心の政治に異議を唱えて乱を起こした藤原広嗣は裁判に掛けずに殺害され、同16年には安積皇子が死去(暗殺とも言われる)、そして天平21年(749)には孝謙天皇が即位して、藤原仲麻呂(恵美押勝)・道鏡らの時代へと世は進んでいきます。その間にも橘奈良麻呂の変(757)には道祖王・黄文王らが殺害されており、要するにこの8世紀前半というは多くの人がいうように『皇位継承権者・総受難時代』です。

この時代に生きた白壁王は、当時主流であった天武天皇系に対して傍系の地位に甘んじていた天智天皇系で、比較的皇位争いからは遠い立場にはありましたが、受難を恐れていつも大酒を飲み、努めて出過ぎた発言をしないように留意して「無能さ」をアピールして人生を過ごして来ました。そのお陰であくまで臣下の身として最終的に大納言にまで進んでいます。

そして神護景雲3年(769)称徳天皇は自分の後継者として皇族の血を引いていない道鏡を指名しようとするのですが和気清麻呂の勇気ある行動により阻止されます(宇佐八幡御神託事件)。怒った天皇は清麻呂を追放しますが、失意の内に結局後嗣の定まらないまま翌年8月4日死去してしまいました。

そして、群臣はこの後、では一体誰を次の天皇にすべきかで大もめにもめます。

この激しい動乱の中、聖武天皇の時代から一貫して権力の中枢にいた希有な人吉備真備(きびのまきび,当時右大臣)は長屋王の子で臣籍に降下していた文屋浄三(当時78歳)を推し浄三が高齢を理由に辞退すると、次いでその弟の大市(同67歳)を推しますが、この時代の藤原家のリーダーである藤原永手はその出来上がった後継者発表の文書を直前に名前だけ白壁王(当時62歳)にすり替えるという暴挙によって、白壁王を次期天皇にしてしまいました。この付近の詳細な系図をあげます。

            土師真妹‖――和新笠(高野新笠)天智天皇       和乙継  ‖‖              ‖―――山部王(桓武天皇)‖――――――施基皇子    ‖越君伊羅都売   ‖―――――白壁王(光仁天皇)紀橡姫     ‖‖―――他戸王県犬養広刀自 ‖‖―――井上内親王聖武天皇県犬養三千代  ‖―――阿倍皇太女(孝謙天皇,称徳天皇)‖――――藤原安宿媛(光明皇后)藤原不比等

なぜ白壁王が突然担ぎ出されたかというと、その妻に原因があります。つまり王の后は聖武天皇の皇女の井上内親王(いがみ・ないしんのう,717-775)であり、その間には他戸王(おさべおう,756-775)が生まれています。この他戸王は、結局天武系・天智系の両方の血を引く皇子であり、永手としては、この皇子を次期天皇にしたかったわけで、それに先だって、その父親の白壁王を天皇にしてしまったわけです。

同様の操作としては後の平安末期に近衛天皇の後継者として守仁親王(後の二条天皇)の名前があがり、その前段階として親王の父である雅仁親王が天皇の地位につけられる(後白河天皇)という操作が行われたことがあります。

この発表に一番驚いたのは何といっても白壁王本人であったでしょう。何とか60年余の人生を激動の時代に無事長らえてきて、立派な息子も数人いるし後はいつ引退するか、と思っていた所に突然の次期天皇指名。しかし形式的とはいえ先帝の遺詔として名前が発表されてしまった以上、断る訳にはいきません。

王は10月1日践祚し、年号は宝亀に改元されます。藤原永手の希望通り、井上内親王を皇后にし、他戸(おさべ)王を皇太子にします。吉備真備は当然引退しました。また道鏡の即位を防いだ功労者である和気清麻呂が本位に復帰します。この清麻呂は後に桓武天皇の時代に平安京の建築のために尽力することになります。

さて、これでとにかく新天皇も決まり、しかも次期天皇は天武系と天智系が統一されるというめでたいことになる。これで世の中も安泰か、と思っていた所でハプニングが起きます。肝心の藤原永手が天皇即位の翌年宝亀2年(771)急死してしまったのです。

するとここで藤原北家の永手に代わって権力の座に就いたのが藤原式家の良継でした。彼は北家の息がかかる他戸王の即位を嫌って、井上皇后に無実の罪を着せて廃后し、その子供であるからといって他戸王も廃太子するという強引な真似をしました(後に両者とも殺害される)。

代わって藤原良継が皇太子として担ぎ出したのが、渡来氏族の和(やまと)氏の和新笠を母とする、山部王です。この立太子に際して、母の新笠には「高野」の姓が与えられました。そして結果的にこの事件により約100年続いた天武系の血筋が途切れて、皇統は完全に天智系に戻ることになったのです。

この光仁天皇の時代というのは、ここ数十年に乱れに乱れていた政治体制の建て直しが行われた時期です。予算的にもずっと緊縮財政が敷かれており無駄な出費は極力抑え込まれました。そして大量の官僚の入れ替えが行われて不正行為をした者の追放、また無実の罪で失脚していた人の復位などが盛んに行われています。

光仁天皇は12年在位した後、天応元年(781)4月3日、病気を理由に皇太子山部親王に譲位(桓武天皇)しますが、この短い期間に奈良時代につもりつもった行政上の歪みが正され、それが桓武天皇以降の平安時代のスタートの土台となったのです。

なお、光仁天皇の時代の初期は藤原良継が権力を掌握していますが宝亀8年(777)に死去、その後はその弟の百川に引き継がれ、この百川も宝亀10年に亡くなると、その後は良継・百川の甥の種継と、北家の藤原魚名が競う時代になっています。この時代は執政者が実にコロコロ変わっており、それが結果的には次世代の桓武天皇の親政につながるのでしょう。(魚名も桓武即位の2年後に死去。その2年後には今度は種継が暗殺される−早良親王事件)


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