第101代天皇・称光天皇となる躬仁(みひと)親王は後小松天皇の皇子として応永8年(1401)3月29日に生まれました。
親王は応永18年に立太子し翌19年践祚して天皇となりました。この立太子・践祚はひじょうに重要な意味を持っていました。
親王の父の後小松天皇ははじめ北朝の第6代天皇として即位しましたが、明徳3年(1392)南朝の後亀山天皇(99代)が三種神器を後小松天皇に譲り、ここに南北朝の統一がなり、後小松天皇は第100代天皇となるわけですが、この時、天皇は北朝側・南朝側から交互に出すという約束がなされました。その約束を守るのなら、本当は後小松天皇の後継者は後亀山天皇の皇子でなければならなかったはずです。
しかし、そもそもこの時後亀山天皇が三種神器を譲ることを決意した背景には、南朝側の支援者が少なくなって、もうこれ以上の足利政権への抵抗が不可能になってきたことによるものでした。そのため、約束はしたものの、本当に守ってくれるかは「期待」でしかなかったのですが、その期待は称光天皇の即位により完全に打ち砕かれたことになります。ですからこの時点で南朝の夢は完全についえたことになります。
さて、本来はここで称光天皇の子孫が天皇家を継いでいければ言うことなかったのですが、この天皇は仏教に深く帰依し、身を潔斎して決して女性をまわりに近付けようとしませんでした。そのため天皇には跡継ができず、更に28歳で若死にしてしまいます。
そこでまだその時点で在命していた後小松上皇は北朝第3代天皇・崇光天皇の曾孫の彦仁親王を後継者に定め、第102代天皇としました(後花園天皇)。ここでもまた南朝は無視されてしまい、以後は後花園天皇の家系が天皇を継いでいき現代にまで至っています。
なお、禅僧として名高い一休宗純は称光天皇の兄に当たります。