京都五山の主流を確立した夢窓国師(*1,1275生)は正平6年(1351)9月30日に亡くなりました。
伊勢国で生まれた夢窓は幼い頃から頭の良い子で、9歳で出家。奈良の東大寺で仏教経典はもちろん中国の老荘思想などまで修めました。しかし20歳の時、夢の中で異人に導かれ、疎山と石頭という2つの禅寺に連れて行かれます。この夢をきっかけに禅を修める必要を感じた彼は夢の中に出てきた寺の名前から1字ずつ取って疎石と名乗り、一山一寧・高峰顕日のもとに参禅し印可を得ました。
この後彼は大きな寺を避けて一人修行に励みますが、ある時一人で坐禅していた時に眠気に襲われます。そこでしばらく後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。思わず大笑いした時、悟りを得ました。
やがて後醍醐天皇に乞われて南禅寺の住職になり、夢窓国師の号を受けました。そして後醍醐天皇が失脚したのち、今度は今やその政敵となった足利尊氏の帰依を受けました。
夢窓国師はまた天竜寺・西芳寺などの庭園を手がけ、また詩や書道にもすぐれていました。しかし彼にとってその全てが禅の実践でした。
-----------------------------------------(*1) 多くの仏教の宗派の偉いお坊さんは弘法大師・慈覚大師のように「大師」の号を贈られていますが、禅宗のお坊さんの場合は「国師」を贈られている人が多いです。隠元が普照国師,沢庵が天応大現国師.