「神皇正統記」の著者、北畠親房は正応6年(1293)1月29日(一説では13日)に生まれました。父は右衛門督・北畠師重、母は藤原隆重の女です。8歳で元服、15歳で父の出家に伴い家督を継ぎました。27歳で中納言、32歳で大納言。
文保2年(1318)から世良親王(後醍醐天皇皇子・太宰帥)の養育にあたっていましたが元徳2年(1330)に親王が亡くなりますと、それにあわせて出家。宗玄と名乗りました。その間に世は動乱の時代に入っています。元亨4年(1324)に正中の変、元徳3年(1331)には元弘の乱が起きて翌年には後醍醐天皇が隠岐に配流になります。しかし天皇は隠岐を脱出、楠木正成・新田義貞の挙兵、足利尊氏の寝返りらにより元弘3年(1333,正慶2年)、鎌倉幕府は滅亡しました。
しかし新政府のあり方を巡って後醍醐天皇らと、足利尊氏らが対立。尊氏はいったん逆賊の汚名を受けますが起死回生で光厳天皇を立てて北朝を創設。そこから征夷大将軍に任じられて、世は南北朝の時代に突入してしました。後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝となります。
その動きの中、親房は長子の顕家とともに後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて、いったんは奥州に下り、その後再び中央に戻って、吉野から伊勢の範囲で天皇や親王を守って活動しました。延元3年(1338,建武5年)には顕家と親王が京都を攻めますが、顕家戦死。親王は吉野に戻りました。翌年天皇崩御。親王は後村上天皇として即位します。
神皇正統記はこの年に完成しました。その後も南朝と北朝の衝突は断続的に続き、正平3年(1348,貞和4年)には楠木正行戦死・吉野宮炎上で後村上天皇は賀名生へ移り、親房らもそちらへ同行しました。親房はその地で正平9年(1354,文和3年)62歳で亡くなっています。その後北畠家は渡会氏と親交があった関係で伊勢を本拠地にして南朝を支え続けました。
このような時代に書かれた神皇正統記は、神代以来の皇統と各天皇の御代の記事が書かれた貴重な資料ですが、その執筆目的はやはり南朝の正統性を主張することにあります。実際軍事的に不利な立場にあった南朝の人たちにとって、この本は大きな精神的支えとなりました。しかし日本書紀等を深く研究するとともに渡会氏との交友により伊勢の神道にも明るかった北畠親房のこの著は対立した側である北朝の人々にもよく読まれたようです。ただしさすがに足利尊氏などに関する評はそのまま読み難いものがあったようで、北朝系に伝わる写本にはこの部分が欠落しています。
なお、大阪の阿倍野神社に北畠親房・顕家が祭られています。ここは顕家が足利勢と戦った古戦場の跡。この神社の本殿周りに掲示されている資料も貴重です。私はここに2度行って2度とも写真に収めそこなっていまして、今年大阪に行く機会があったら、また行きたいと思っています。