歌人・与謝野晶子の夫として有名で、。経済財政政策担当大臣・与謝野馨の祖父でもある、与謝野鉄幹は明治6年2月26日、京都市に生まれました。本名は寛です。お父さんは願成寺というお寺の僧で歌人でもありました。鉄幹の号は1890年から使用しています。
なお「与謝野鉄幹」は正字で書くと「與謝野鐵幹」となり画数は76画です。実はお父さんの「與謝野禮厳」も76画です。こんなに画数の多い名前はそうそうありません。姓名判断の研究者にとっては貴重なサンプルです。
なお、日本の暦は明治6年(1873CE)から太陽暦(グレゴリウス暦)に切り替えられており、新暦移行してまもなく生まれたことになります。
お坊さんとしての修行をしたのち、山口県徳山町(後の徳山市,現周南市)の徳応寺の僧となり、このお寺が経営していた徳山女学校の教師も兼ねます。1889年、寛16歳の時でした。
しかし女学校にこんな若い男性教師がいたら何か問題が起きない方が不思議です。寛は女生徒の浅田信子と恋愛関係に陥り、子供まで作ってしまいます(夭折)。このため寛は教師を辞任することになり、京都に戻り信子と結婚したのち、20歳の時に東京に出ました。
ここで彼は明治書院で編集者として活動する傍ら、跡見女学校の教師となりました。1899年信子と離婚し、林滝野と結婚します。彼女もまた徳山女学校の生徒だった人で、ふたりの間には男の子が1人できています。
1900年、夫人と共同で「明星」を創刊。この文芸誌で、北原白秋・石川啄木らが頭角を現していきました。そうした若き才人たちの中に鳳晶子の姿もありました。彼は晶子の才能がひときわ際だっていることに注目しますが、またまた彼女と不倫関係に陥ってしまいます。この人はどうも女性関係がいい加減すぎます。
これで愛想を尽かした滝野は寛と離婚。彼女は後に、歌人の正富汪洋と結婚しています。
一方で寛は晶子を支援して「みだれ髪」を完成させました。その年、晶子と結婚。ふたりの間には六男六女が生まれました。次男で、与謝野馨の父にあたる与謝野秀(1904-1960)はのちに外交官になり、エジプト大使・スペイン大使・イタリア大使などを歴任。東京オリンピック事務長なども務めています。
1911年晶子とともに渡欧し、フランス、イギリス、ドイツなどを訪問。この旅行は晶子に強い刺激を与え、様々な創作活動につながっています。
寛は1919年から1932年まで慶応大学の教授を務めましたが、一方で自由な校風の学校を作ることを企画し、1921年に数人の友人と共に文化学院を創設しました。文化学院は自由すぎて第二次大戦中は当局からにらまれ校長が拘束されたりもしましたが、現代までその命脈を保っています。寛が慶応の教授であった関係で、文化学院の講師陣にも慶大関係者が多かったようです。
彼が文学活動を主としてしていたのは明星を創刊した頃まででその後は自身の創作活動はあまりおこなっておらず、めだった作品も残していないようです。しかし彼の活動により、多くの才能が花開いて行きました。彼はプロデューサーとして天才であったのでしょう。
1935年3月26日、気管支カタルをこじらせて死去。享年63。
(2011-02-25)