「山のあなた」の名訳詩で知られる上田敏は明治7年(1874)10月30日、東京築地で生まれました。まずはその「山のあなた」を見てみましょう。
山のあなた
山のあなたの空遠く「幸い」住むと人のいう。ああ、われひとと尋(ト)めゆきて涙さしぐみかえりきぬ。山のあなたになお遠く「幸い」住むと人のいう。
念のためこの原文を掲載します。傍に原詩の意味を知るために私の駄訳を添付します(^^;
Ueber den Bergen Carl Busse 山のかなたへ /カール・ブッセ
Ueber den Bergen, weit zu wandern 山のかなたの果てしない遠くにSagen die Leute, wohnt das Glueck. 幸福が住んでいると人が言う
Ach, und ich ging im Schwarme der andern, ああ、そして私もみんなと一緒に行ってkam mit verweinten Augen zurueck. 涙のあふれた目のまま帰ろう
Ueber den Bergen, weit weit drueben 山のかなた遠く遠く向こうにSagen die Leute, wohnt das Glueck. 幸福が住んでいると人が言う
※ Ueber, Glueck, zurueck, drueben はウムラウトを e を付して 表わしています。
weit zu wandern は英語に直訳してみると分かります。far to go 「行くには遠い」ということですね。zurueck-kommen は恐怖の(^^;分離動詞です。
ブッセ(Carl Busse,1872-1918)はドイツの新ロマン派の詩人です。単純で完成した文体が特徴である.....と新川和江さんの「若き日の詩集」(集英社文庫)に書いてありました(^_^; 新ロマン主義というのは20世紀初頭のドイツの文芸運動で、19世紀末世界的に波及した自然主義の限界を越える指導原理としてとらえられました。その代表がリルケとされます。
しかし改めて上田敏の訳を見てみると、訳詩という作業は本人が美しい言葉を持っていなければできないのだ、という当たり前のことを思い起こさせます。
上田敏は京橋開稚小学校から第一高等中学校に入学。中学時代に翻訳で多数の海外の詩を読んだといわれます。やがて「文学界」に寄稿。その同人たちと交友を深めます。東京帝大(現東大)卒業後同大の大学院で小泉八雲に師事。東京高等師範(現つくば大)の教官になります。
明治31年に「帝国文学」でフランスの詩人を紹介。それを皮切りとして欧州の詩や文学を多数紹介するようになりました。フランスの象徴派の詩人の訳詩を始めたのが明治37年からであるといわれます。翌年上記「山のあなた」やヴェルレーヌの「落葉」(最後に紹介します)などを含む「海潮音」を出版しました。
明治41年欧州留学後、京都帝大の教授となり、その後も多数の訳詩を行うと共にダンテの「神曲」の翻訳なども手がけています。大正5年(1916)7月9日15時腎臓疾患のため急死。享年43歳。あまりにも早すぎる死でした。
では最後に「落葉」を。真ん中が原文を理解して頂く為の私の駄訳。右側が上田敏の『超訳』です。(当幅フォントで見てください。例えばOutlook Expressの方は ツール/オプション→読み取り/フォントで「プロポーショナルフォント」をMSゴシック,「フォントサイズ」を小に)
Chanson d'Automne 秋の歌 落葉/上田敏
Les sanglots longs 秋の 秋の日のDes Violons ヴィオロンの ヰ゛オロンのDe l'automne 長いすすり泣きが ためいきのBlessent mon coeur 私の心を突き刺して 身にしめてD'une languer モノトーンの ひたぶるにMonotone 憂鬱を引き起こす うら悲し。
Tout suffoncant 全てが息苦しく 鐘のおとにEt bleme, quand 青ざめて、やがて 胸ふたぎSonne l'heure 時を告げる鐘が鳴り 色かへてJe me souviens 私は思い起こす 涙ぐむDes jours anciens 古い日々を 過ぎし日のEt je pleure. そして私は涙する おもひでや。
Et je m'en vais そして私は落ちぶれて げにわれはAu vent mauvais 悪い風に吹かれ うらぶれてQui m'emporte 連れて行かれる こゝかしこDeca, dela, ここかしこに さだめなくPareil a la そしてやがて とび散らふFeuille morte. 枯葉のようになる 落葉かな。
(poem de Paul Verlaine)