東郷平八郎(1847-1934)

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日本海海戦の快挙で知られる海軍元帥東郷平八郎は弘化4年(1847)12月22日鹿児島の加治屋町に生まれました。

文久3年の薩英戦争に数え年17歳(満15歳)で参戦したのを最初に戊辰戦争では宮古港海戦と箱館海戦に従軍。明治4年(1871)から8年間にわたってイギリスに留学して当時世界最強の海軍の合理的な精神に学びました。明治27〜28年(1994-1895)の日清戦争では軍艦・浪速の艦長として活躍、明治29年海軍大学校長、明治36年10月19日第一艦隊兼連合艦隊司令長官。明治37年海軍大将。

この明治36年の東郷の連合艦隊司令長官抜擢は大方の予想を裏切るものでした。彼を推薦したのは山本権兵衛海軍大臣ですが彼はその理由を「彼は運の強い男ですので」と答えたといいます。戦争において運の強さというのは、大きな武器になります。

当時日本海軍は東郷自身が率いる第一艦隊と上村中将率いる第二艦隊、片岡中将率いる第三艦隊に分かれていました。一方のロシアは太平洋沿岸に展開する太平洋艦隊とヨーロッパ側バルト海に展開するバルティック艦隊とに分かれていましたが、日本との決戦のためにはこのバルティック艦隊を日本海に回航して総力で日本海軍を叩くことが必要と思われました。それに対する日本側は両者が合流する前に各個撃破する必要がありました。つまりこの戦争の勝敗の行方はロシアの太平洋艦隊とバルティック艦隊が合流できるかどうかにあった訳です。

そのロシアの太平洋艦隊は遼東半島の旅順(日本語読みりょじゅん、中国読みリュイシュン,現大連市内)、朝鮮半島東岸の仁川(日本語読みじんせん、韓国語読みインチョン,現ソウル郊外)、そして北方のウラジオストクなどに展開していました。

戦闘が始まったのは明治37年2月8日夕方。旅順で日本側が夜襲を掛けたのが最初ですが、これはあまり戦果は得られませんでした。翌日始まった仁川戦ではロシア鑑二隻を沈めるのに成功しています。そして戦争の主戦場は旅順に移りました。ここを攻撃したのは主として第一艦隊です。

ここでは日本側が何度も攻撃を掛けても、ロシア側は陸上の砲台から正確にこちらの艦を攻撃して手がおえませんでした。多くの艦船を失い、作戦中に後に軍神としてあがめられることになる広瀬中佐も戦死しました。退避中に部下がいないことに気づき助けに戻って船と一緒に沈んでしまったものです。

この陸上からの攻撃が大きな戦果をあげていたロシア側にしても旅順の艦隊自体は充分な働きをすることができずにいました。ロシア側はこの艦隊をいったんウラジオストクに回航することにし8月10日朝、港から出てきて日本艦隊と向かい合いますが、日本側は相手の目的がウラジオストクに行くことだとは気が付かず最初取り逃がしてしまいます。

しかしその後相手の意図に気づいてから追い掛けはじめて夕方には捕捉。黄海上で激しい戦闘に入りました。戦況は必ずしも日本有利とはいえない状況でしたが偶然にも日本側が撃った砲弾が相手側の旗艦司令塔に命中、操舵手が舵にもたれかかったまま絶命したため突然左手に旋回しはじめ、その後ろの艦が何かの作戦かと勘違いしてそれに続いたため、相手側は大混乱に陥ります。結果的にロシア側は旅順の戦力の7割を失う結果になりました。これが黄海海戦です。

一方この旅順から回航してくるはずの艦隊を支援するためウラジオストク隊も朝鮮半島まで南下してきていましたが、この艦隊は蔚山(日本語読み いさん,韓国語読みウルサン,釜山から30kmほど北)沖で日本の第二艦隊と遭遇ししました。

ウラジオストク隊はそれまで足の速い船を使って日本沿岸をいいように荒し回り、その対策にあたっていた第二艦隊はなかなか相手をとらえることができずに、司令官の上村中将はロシアの回し者呼ばわりまでされていましたがまさに「ここで会ったが百年目」。それまでの怨みをこめて激しい攻撃を実施。ロシア側の主力艦を沈めることに成功しました。ウラジオストク隊はこれで事実上無力化してしまい、結果ロシアの太平洋艦隊はズタズタの状態になってしまいました。これが蔚山沖海戦です。

一方のバルティック艦隊が出発の準備に手間取ってやっと出港したのは10月に入ってからでした。さらには10月21日、北海でイギリスの漁船を待ち伏せしていた日本の水雷艇かと誤認して砲撃してしまう失態を犯してしまいます。このことで態度を硬化させたイギリスはロシアに一切協力しない方針を打ち出しました。ロシアが日本までの道筋補給をしなければならないアフリカの諸国はほとんどがそのイギリスの植民地です。このためロシア艦隊は補給と乗組員の休養を充分に取ることができず、かなり疲れた状態で日本近海までたどりつく羽目になりました。

一方旅順ではロシアの艦隊はかなり弱体化したものの、陸上の砲台は相変わらず脅威で、相変わらず日本海軍はこれに悩まされていました。そこでこの砲台を陸上から攻略することにし、海軍のトップが陸軍に頭を下げて、攻撃を依頼します。この任に当たったのが、乃木希典中将(後大将)でした。

しかし乃木は野戦に関してはベテランであっても、こういった要塞攻撃に関するノウハウは持っていませんでした。彼の二人の息子を含むおびただしい犠牲者を出してしまいます。一向に戦果をあげられず、ただ突撃攻撃を繰り返すだけの乃木に怒った児玉源太郎参謀長は一時乃木から指揮権を譲らせ、数十門の大砲を203高地に近い高崎山に設置。12月5日、ここからの砲撃により、わずか半日でこの要塞を落としてみせました。(当時乃木を解任しろという声が強かったそうですが、乃木の友人でもある児玉は解任はせずに一時的に指揮権を譲らせる形でここを乗り切りました)

そして203高地を押えた日本軍はただちにここに自軍の砲門を設置。相手の機先を制してここからの砲撃により逆に旅順港にいた残りのロシア艦船を全部沈めてしまいます。これでいよいよ残る敵は北上してくるバルティック艦隊だけになりました。

そのバルティック艦隊は何らかのルートで日本近海を通過しウラジオストクに入ってそこを拠点として日本側を牽制することが想定されましたが、それをされると更に長期戦を覚悟せねばならず、長期戦になれば国力のない日本には厳しいことになります。早期に戦争を終結させ少しでも日本側が有利な内に講和を結ぶためには、この艦隊の北上自体を阻止する必要がありました。

そのウラジオストクに入るには、対馬海峡・津軽海峡・宗谷海峡のいづれかを通過することになります。日本側としてはロシア側がどこを通過するのか予測できず、軍部首脳の意見も分かれました。そこでどこに来てもすぐに対処できるように主力を取り敢えず朝鮮半島南部鎮海(日本語読み:ちんかい、韓国語読みチンヘ,釜山のすぐ西)に集めて、動きを探っていました。

5月25日にはロシア艦隊がなかなか姿を見せないことから津軽海峡か宗谷海峡を回ったに違いないという意見が強く出て、北方への移動が決まりかけますが藤井較一・島村速雄の両名が強硬に反対。あと1日待つことになりました。これが結果的に幸運を招きました。26日、ロシアの輸送船が上海に入港したという連絡が入ったのです。上海で輸送船を切り離してしまったということは太平洋を回って津軽海峡か宗谷海峡を目指すことはできず対馬海峡を通るしかないということになり、日本はギリギリの段階でロシア側の行動を知ることが出来ました。

一方のロシア側はおそらく日本側は三海峡に分散させて待ちかまえているだろうから、どこを通っても同じなのでそれなら最短距離の対馬海峡を通過し、相手が3分の1の勢力なら多少の被害は出るかもしれないが大半の艦船はウラジオストクに到着できるだろうと考えていたといわれます。

そして翌27日早朝、哨戒作業にあたっていた日本海軍の巡洋艦信濃がロシア艦隊を発見、ただちに無線で本隊に報せました。この時日本側は各艦に最新の無線設備が装備されていたのに対して、ロシア側は新しい船から古い船までゴチャゴチャであったため、急ぎの連絡が取り合えない状況であったといいます。日本海海戦は無線という当時のハイテクの勝利でもありました。

旗艦三笠に乗船する東郷司令官は「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と各艦に戦闘態勢を取るよう司令しました。(参謀・秋山真之の起草)

本格的な砲撃戦の開始はその日の午後になります。日本側はT字状に展開して、ラインで相手艦船を捉え、1個ずつに集中攻撃をして、ひとつずつ沈めていく作戦を採ったといいます。狭い対馬海峡故に相手が横に広がることができないのを利用したうまい作戦でした。それに無線による緻密な連絡の取り合いが効いています。これに対して横の連絡がうまく行っていないロシアは各艦船がバラバラの攻撃を繰り返し、両者の戦果は歴然としていました。

翌日午前中までにバルティック艦隊は3分の2の艦船が沈み、降伏した艦船などをのぞくとウラジオストクにたどりついたのはわずか3隻。5000名の死者と6000名の捕虜が出ました。一方の日本側の戦死者は117名に留まっています。

この戦いで日本にはどっちみち来れない黒海艦隊をのぞく主力海軍が壊滅したロシア側は講和を結ばざるを得なくなり、日露戦争は日本側の勝利で終了したのでした。明治38年9月講和条約が調印されます。

東郷はその年12月戦争が終わって連合艦隊を解散するにあたり、次のような訓辞をおこなっています。

 昔神功皇后が朝鮮に進出してから400年間日本は半島に拠点を築いていたのに、ひとたび海軍が衰えると(白村江の戦いで)たちまちこれを失った。近年でも徳川幕府の時代に太平になれてしまっていたら、ほんの数隻のアメリカ軍艦にも立ち向かうことができなかった。

 平和な時こそ軍人は鍛錬を怠ってはいけない。そして時代に取り残されないように技術の進歩を常に図っておかなければならない。一勝に満足して太平に安閑としている者はただちにその栄冠を取り上げられるであろう。

この訓辞に一番影響を受けたのはアメリカのルーズベルトであったといいます。彼は東郷の合理的な精神に感嘆し、アメリカ海軍の装備の近代化と効率的な戦術の開発に腐心しました。

一方の日本側では東郷をただ崇めるだけで、彼の精神を全く尊重しないで、一勝に満足して、技術の進歩を怠り、単なる精神論だけで時代遅れの訓練ばかりを繰り返し、そのあとのシナ事変で苦戦し、太平洋戦争で手痛い敗戦を喫することになります。

その間違った世の中の動向を苦々しく思いながら昭和9年(1934)5月30日逝去。享年88歳。晩年は東宮御学問所総裁などを務めました。侯爵にも叙せられています。そしてその霊は福岡県の東郷神社ほかに祭られています。また彼が乗船して指揮をとった三笠は現在横須賀に記念艦として保存されています。


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