横山大観(1868-1958)

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日本画史上に燦然たる輝きを放つ大家、横山大観(出生名:酒井秀蔵)は明治元年9月18日、水戸市で生まれました(明治改元は9月8日)。彼は典型的な晩年運の人です。

父の酒井捨彦は水戸藩士でしたが維新後商売を始めたものの失敗。県庁職員を経て内務省の職員になったので一家は上京。彼は東京大学の工科を目指して予備門を受けようとしましたが規則違反で失格。代わりに東京英語学校に入ります。そして在学中に絵画に興味を持ち、日曜毎に洋画家渡辺文三郎の所に通って特に鉛筆画の勉強をしました。

1988年に母の親戚の横山クラの養子となって横山家を継ぎ横山秀麿を名乗ります。そして1989年、日本美術学校設立の話を聞き、それに参加して第一期生となりました。美校では橋本雅邦から高い評価を得ますが学科が悪かったため教官として残ることはできず共立美術館、京都美術工芸学校の教官を歴任します。この京都時代に寺の住職との交友から「大観」の号を得ました。

1898年に岡倉天心が美校で弟子との対立から辞任する騒ぎになると天心に従って橋本雅邦ら16名の教官が辞任。菱田春草や大観を含めたこのメンバーで、「日本美術院」が設立されることになります。しかしこの頃の大観や春草の絵は世間には不評で絵も売れず苦しい時代を送ります。

大観はインド、アメリカ、ヨーロッパ、などを訪れ各地の絵画を見て刺激を受けて来ますが、帰国した頃には日本美術院は荒廃していました。茨城県の五浦(いづら)に移転するも肝心の天心は忙しくて不在が多く、やがてその岡倉天心も1913年亡くなります。

しかしこの時期から横山大観は逆に幸運の風に乗るようになります。

大観や下村観山らを中心に東京美術院の再興が図られ1914年に第一回の院展を開催。有力作家が参加して、賑やかなものとなり大いに注目を集めます。そしてこの時期から大観の絵も高く評価されるようになり、大観自身にとっても、もっとも精力的に活動する時期が始まるのです。この彼にとっての最盛期はだいたい1935年頃まで続いています。

1937年に文化勲章が制定されると竹内栖鳳と共に受賞。

昭和に入ってからの大観は国粋主義的な側面が出て、皇室にも度々絵を献上しており、秩父宮家創設の時に制作された「秩父霊峰春暁」などは特に記念碑的なものです。1943年には日本美術報国会の会長になっていますが、このため戦後は戦犯として取り調べを受けたりもしました。

戦後は作品制作数は減ったものの円熟味を増し、静かな水墨画などを多く制作しています。

1958年2月16日逝去。その偉大な足跡に対して正三位勲一等旭日大綬賞を贈られました。


(2005-09-17)

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