山頭火(1882-1940)

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流浪の俳人・種田山頭火(たねだ・さんとうか,本名正一)は明治15年(1882)12月3日山口県西佐波令村(現・防府市八王子)で生まれました。父は村の助役まで務めた人でしたが、山頭火が11歳の時、その父が愛人の女性と旅行をしている間に母が自殺。この家庭環境は山頭火の心に暗い影を投じました。

県立山口中学から予科を経て早稲田大学に入学。同期に小川未明がいます。大学は体調を崩して2年で退学、父の酒造場を手伝いながら療養。28歳の時に結婚して子供も生まれます。

このころから文学活動を始め、地元の文芸誌の田螺公(たにしこう)の名前で投稿を始めます。やがて明治44年(1911)自由律俳句を提唱していた荻原井泉水の「層雲」に寄稿。大正5年(1916)にはこの層雲の選者になっています。

山頭火の号もこの荻原井泉水に習って付けたものです。山頭火という納音(なっちん)がありますが、これは私も彼の年表をかなり研究したのですが、彼の生まれにしても、何か重要な事件が起きた年にしても、山頭火(甲戌・乙亥)には絡んでいません。本人はなぜ「山頭火」という名前を選んだか?と聞かれると「かっこいいから」と答えたそうです。ただ晩年になると「自分にはやはり田螺公の方が似合っている」と付け加えたとのこと(*1)。彼は山頭火の名前で作品を発表する傍ら、田螺公の名前での投稿も続けています。

やがて父の酒造場が倒産すると彼は妻子を連れて熊本に移動、ここで古本屋を始めます。しかし仕事をさぼりがちで、とうとう大正9年(1920)妻と離婚。単身東京に出ます。

東京でいくつもの仕事を転々としている内に関東大震災に遭い、東京は壊滅。そこで行き先のなくなった山頭火は熊本に戻り、元妻の所に転がり込みます。それで復縁してマジメに働くような人であったら、ある意味良かったのでしょうが、この人はそういう生き方のできない人でした。

結局前と変わらぬ生活ぶりで、そういう自分が嫌になってしまい自殺未遂。しかしこの時に熊本市内・報恩寺の望月義庵和尚に諭され、その縁でこの寺の寺男男になります。そして大正14年得度し耕畝と名乗りました。

1年ほどは堂守をしていましたが、大正15年からは雲水となって各地を行脚しはじめます。その範囲は遠く名古屋方面まで及びました。そして昭和14年四国の松山で「一草庵」を結庵。ここを終の棲家と定めました。翌年はまた九州方面まで旅をしていますが、昭和15年(1940)10月11日、一草庵で死去。享年57歳。生涯に詠んだ句は84,000句といわれています。

----------- (*1)山頭火というのは山の頂上で火(噴火)が起きているという意味で   華々しい様子を表します。その派手な山頭火と、一方ではたんぼ   ではいつくばっているタニシとのギャップに彼はけっこう悩んで   いたようです。


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