1882年(明治15年)「日本のアンデルセン」とも呼ばれる童話作家・小川未明(本名健作)が新潟県高田町(現・上越市)に生まれました。
子供の頃、祖母からいろいろなおとぎ話を聞かされて育ちます。またお父さんは漢学の素養があり、また健作の少年時代、神社の創設に尽力していて、そのお父さんに連れられ山歩きをして、越後の自然に親しんだようです。こういったものがその後の彼の作品に色々な影響を与えています。
彼は結局小学校も中学校も卒業していないようですが、19歳の時に上京して早稲田大学に予備校を経て入学、坪内逍遙や小泉八雲に学びます。「未明」の名前は逍遙が付けてくれたものです。
21歳の頃から本格的文学活動を始め、23歳で早稲田大学を卒業したあと作家としての地位を確立するのに成功します。
それでも20代後半から30代半ばまでは貧困に苦しみ、栄養事情の悪さがたたって子供を2人失う悲劇にみまわれます。そんな中36歳の時鈴木三重吉の『赤い鳥』が創刊され、彼はやっと活躍の場を見いだすことができました。
39歳の時(1921)代表作『赤い蝋燭と人魚』を発表、その後社会主義に傾倒しながらも、44歳の時には一般の小説の執筆を中止。童話一本で行くことにします。そしてその後も戦争の波にのまれながらも多くの童話を発表。
1961年5月6日、脳出血で倒れ、同月11日午後6時55分死去。
■赤い蝋燭と人魚(1921)
『人魚は南の方の海にばかり棲んでいるのでありません。北の海にも棲んでいたのであります。北方の海の色は、青うございました』
という有名な書き出しの悲しい童話。蝋燭屋の老夫婦のもとに預けられた人魚。子供のいなかった老夫婦は人魚を大事に育てますが、やがて、その人魚が描く絵蝋燭が評判になり、夫婦は豊かになります。
しかし豊かになると夫婦は次第に人魚がわずらわしく思えるようになってきて。。。。
ラストの山の神社に赤い蝋燭が灯されるシーンはちょっとゾクっと来ます。
■殿様の茶碗(1919)
未明はこういうユーモラスな作品も書いています。
昔ある国の殿様は有名な陶工の作る、薄地の茶碗を愛用していました。彼の作る茶碗はその薄さにも関わらず丈夫で、たいへん立派なものでした。しかし薄いので、熱い汁などを入れますと手もけっこう熱く感じました。しかし殿様は「こんなに薄いのに丈夫なのは素晴らしい」とほめますので陶工はますます薄い茶碗を作り、殿様はますます熱い思いをしていました。
しかしある日、殿様は山に行って。。。。
■金の輪(1919)
私はこの作品を初めて読んだ時(27〜28歳だったと思いますが)、私自身を18歳頃まで悩ませていたとても恐ろしいイメージが一瞬蘇る思いがしました。私は子供の頃、その夢を見るたびに「自分は40歳まで生きれないかも知れない」と思っていました。
なお、未明は1914年に長男、1918年に長女を亡くしています。
病み上がりの太郎が久しぶりに外に出ると、あぜ道で、金の輪をころがす少年と出会いました。少年は太郎を見るとよく知っている仲ででもあるかのようにニッコリ微笑みました。
淡々と描かれた物語が、この感覚を持っている人には、とてつもなく怖い作品です。逆に言うとこの感覚の経験の無い人には、何とも理解しがたい作品なのかも知れません。