新渡戸稲造(1862-1933)

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文久2年(1862)8月3日、5000円札の肖像で知られ、国連事務局次長や東京女子大初代学長などをつとめ「私は太平洋の架け橋になりたい」という言葉を遺した新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)が、南部藩の盛岡で武士の家に生まれました。

新渡戸家は十和田地方の開拓に非常に貢献してきた家柄です。曾祖父の維民は仕事上の失敗によってこの地に流されたのですが、その息子の伝は藩の勘定奉行を務めてこの地を開拓、伝の息子の十次郎、そして十次郎の息子で稲造の兄の七郎の三代で水路を開き土地を開いて、荒れ野だったこの地帯を穀倉地帯に生まれ変わらせました。

稲造は幼名を稲之助といいましたが、この開拓の土地に初めて稲が実ったのを記念して名付けられたものです。札幌農学校に進んで「少年よ大志を抱け」のクラーク博士の教えを受けます。博士に心酔して洗礼を受けキリスト教徒に。

東京帝大在学半ばにしてアメリカのジョン・ホプキンズ大学へ留学、更にドイツにも留学して農政学などを学びました。明治32年に日本の武士道の精神を紹介する本「Bushido」を刊行、この本は非常に評判になって日本文化の海外への紹介に大いに貢献することになります。

帰国後、北海道の女子校北星学園の運営に関わり、同学園の命名者になった後、明治39年、第一高等学校の校長、大正7年東京女子大初代学長、を歴任。更に昭和3年には女子経済専門学校(現東京文化学園)の初代学長にも就任しました。このように新渡戸は明治・大正にかけての教育、特に女性の教育に多大の貢献をしています。

一方、新渡戸は国際連盟の事務次長、知的協力国際委員会(現ユネスコ)の世話役なども歴任して、国際社会にも大きく貢献しています。新渡戸自身当時の交通事情の中で7回もアメリカ大陸にわたっており、奥さんもアメリカ人で、メリー・パターソンといいました。二人が結婚したのは丁度クーデンホーフと光子が結婚したのと同じ頃で、新渡戸は国際結婚のはしりでもあります。

これほど大きな活躍をした新渡戸がお札になるまで全く一般に知られていなかったというのは、非常に不思議なことですが、新渡戸が活動した時代、日本は戦争への道をひた走っていた状態で、このような国際人の存在は当時の軍部にはあまり嬉しくなかったためではないかと思われます。

今、5000円札の肖像に堂々と登場した、この明治の教育家を、再評価してその功績を讃える時が来ているのではないでしょうか。

なお、新渡戸は1933年(昭和8年)夏バンクーバーを「太平洋会議」出席のため訪れていた時腹痛を訴えビクトリア市内の病院に入院、10月15日20:35、急性膵臓壊疽のため死去しました。71歳でした。遺体は当地で荼毘に付され帰国現在東京の多麿霊園に眠ります。同じ霊園の中には札幌農学校の同窓生である内村鑑三も眠っています。


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