誰もが「直木賞」の名前は知っていても「直木三十五」のことは知らない人が多いようです。
大衆文学の文学賞にその名前を残す作家・直木三十五(本名植村宗一)は明治24年(1891)2月12日に大阪市で生まれました。「直木」というのは本名の植村の植を分解したものです。
東京に出て早稲田大学英文科に入り、ここで菊池寛・芥川龍之介らと交流。「文藝春秋」の創刊にも関わっています。しかし関東大震災により学業の継続が困難になり退学して大阪に戻り、地元で文学活動を続けます。
31歳の時にペンネームを「直木三十一」と定め、その後毎年自分の年齢に合わせて「直木三十二」「直木三十三」と改訂していきました。(ただし、三十四は何か理由があって意図的に飛ばしたらしい。つまり三十三の名は2年間使用した)
ところが36歳になって例年通り「直木三十六」のペンネームに変えてから作品を出したら、たまたま新人の編集担当者が、その例年改訂のことを知らず「三十五」の間違いだろうと勝手に思って、そのように直して掲載してしまいます。そこでつむじを曲げた彼は「じゃ、これからはずっと三十五で行くよ」と宣言。その後の作品はずっと「直木三十五」の名前で通しました。
1929年の「由比根本大殺記」でファンが広がり、1931年の「南国太平記」が最高傑作とされています。他にも「黄門廻国記」などもあり一般に歴史小説が多いようですが「日本の戦慄」など現代小説の作品もあります。
1934年2月24日横浜にて没。享年43歳。直木賞が設けられたのはその翌年1935年です。別に1935年をしゃれて直木三十五を記念した訳ではないとは思いますが、彼はこういう符合を喜んでくれたでしょう。