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↑ 古河市兵衛(1832-1903)


古河財閥の祖・古河市兵衛は天保3年(1832年)3月16日、京都で生まれました。
幼名は木村巳之助といいました。木村家は代々の造り酒屋で庄屋も務めていま
したがこの時期は経営不振に陥っており、また市兵衛の生母は市兵衛が幼い頃
に亡くなったのですが、育ての母との仲はあまりうまく行かず早い時期に家を
出ることを望み、9歳の頃からあちこちに丁稚奉公に出ます。

18歳の時に名前を幸助と改め、叔父のいる盛岡に赴いて南部藩の御用商人・
鴻池伊助店に勤めますがまもなく倒産。しかしたまたま盛岡を訪れていた京都
の組糸店の番頭・古河太郎左衛門が彼の才能に目を付け養子にして京都に連れ
帰ります。ここで彼は名を市兵衛に改め、この店・小野組糸店で働き始めます
が彼の働きで店はどんどん大きくなります。しかし明治7年、明治政府が経済
政策の変更を行ったあおりを受けて倒産してしまいます。

すると市兵衛はこの小野組糸店が所有していた新潟県の草倉銅山を翌年自分で
買い取り、鉱山経営に乗り出しました。その収益が上がってきたところで
志賀直道(小説家・志賀直哉の父)と共同出資で足尾銅山を買い取ります。

当時足尾銅山はもう掘り尽くされたとみなされていたのですが、陸奥宗光(後に
外務大臣)らの資金援助も受けて探掘を続けたところ優良鉱脈を2本も発見。
更には近代技術を積極的に導入して、この銅山を完全復活させました。彼は他に
も多数の銅山を開発し、明治20年頃には彼の経営する銅山からの銅産出量が、
日本全体の銅生産の4割を占めるほどに至ります。

彼はその掘り出した銅を精錬するため東京に1884年本所鎔銅所を設立。そこか
ら生まれる銅加工品を輸出することで海外市場を開拓していきました。そして
この銅を使った電線は明治後半、日本全体に電力配給のネットを広げていくの
に大きく貢献することとなります。更には彼は1890年には足尾銅山に水力発電所
を併設して、銅山の発掘作業の電化を進めました。

彼が作った銅山の経営会社は後に古河鉱業となり、現在は古河機械金属と改名
されています。本所鎔銅所はここと同年1884年に横浜の発明家・山田与七が設立
した山田電線製造所と合併して古河電工になっています。

さて市兵衛の晩年には思わぬ事態が待ち受けていました。

足尾銅山から出る排水が渡良瀬川流域に深刻な公害をもたらしていることが、
衆議院議員・田中正造らにより指摘され、政府は緊急に銅山側に対策を命じます。

細々とした工事の仕様が指定され、少しでも対策工事が遅れたら鉱山は営業停止
という厳しい指令を、渋沢栄一らの資金援助の元、彼は二代目となる古河潤吉
(陸奥宗光の次男で古河家の養子となった)とともにやり遂げました。結局は
この事件への対処で消耗して、市兵衛は1903年4月、71歳で亡くなっています。
また潤吉も同様にかなりの心労があったようで1905年12月、後を追うようにして
亡くなりました。なお、鉱山の経営母体を会社組織化して古河鉱業を設立したの
はこの潤吉です(副社長は後に首相になる原敬)。

その後、古河家は市兵衛の晩年の子である虎之助(母は市兵衛の愛人せい,また
この人の妻は西郷隆盛の弟・西郷従道の娘である不二子)が後を継ぎ、その後
4代目従純、5代目潤之助と受け継がれ発展してきています。またこのグループ
ではしばしば子会社が親会社より発展するという面白い現象が起きています。

1917年には古河銀行を設立。この銀行は後に第一銀行に合流しており現在はその
流れを汲むみずほコーポレート銀行が古河グループのメインバンクとなっていま
す。1923年にはジーメンスと共同で富士電機(フルカワ+ジーメンスでフジ)を
設立して電気機械の製作を始め、1935年にはその中から電話機や交換機を製造販売
する部門を「富士通」として分離しました。1939年には東京電灯(現東京電力)
と共同で日本軽金属を設立。銅の次世代の主力金属と思われたアルミニウムの
精錬事業に取り組みます。

このほかの古河グループの企業としては、古河産業、古河林業、横浜ゴム、
日本ゼオン、朝日生命保険、旭電化工業、ニフティなどもあります。サッカーの
JリーグでもJEF市原千葉が元々古河電工のサッカー部から発展したもので、また
川崎フロンターレも富士通のサッカー部から発展したものです。

なお4代目潤之助には男の子が5人おり、長男で古河家の継承者となった潤之助
が古河電工、次男久純が古河林業、三男正純が古河産業、四男建純がニフティ、
五男直純が日本ゼオンの、各々社長に就任しています。 

古河市兵衛については以前は足尾銅山の鉱害を引き起こした人物として悪く書か
れることも多かったのですが、最近では本来の業績の方も評価され、全体的な
評価は以前より良くなってきているようです。確かに当時は公害などという概念
もなかったでしょうし、自然の浄化能力を過信しすぎていた面もあったでしょう。

むろんそれでこの鉱害により失われた多数の命に対する免罪をすることはできま
せんが。むしろ明治時代にこれだけ大騒ぎになった公害事件があったのに昭和に
なって再び水俣湾や阿賀野川などでの大規模な公害が発生するのを防げなかった
政府の体制にも問題がありそうな気もします。

(2005-03-15)

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