「天は人の上に人を造らず」の言葉で知られ、慶応義塾の創立者、そして1万円札の人物である福沢諭吉は天保5年12月12日(太陽暦1835年1月10日)に大阪堂島の中津藩屋敷で生まれました。
父百助は13石2人扶持という下級武士でしたが翌年(翌々年との説も)死亡したため一家は中津に帰り、諭吉は地元の塾で漢学を学びました。二十歳の時に長崎に出て蘭学を学びますが、翌年大阪に行って緒方洪庵の適塾に入り、ここで非常に強い影響を受けることになります。
いったんは兄の死で家を継ぐことになり中津に戻りますが、適塾への思いが諦めきれず、藩の許しをもらって在籍のまま大阪に戻り、やがて適塾の塾長にまで任じられます。
そして安政5年(1858)藩から江戸に出仕するよう命が下ったのを期に、同塾の岡本周吉とともに江戸に下って中津藩の築地の江戸屋敷内(現中央区明石町)に「一小家塾」を設立しました。これが現在の慶應義塾のはじまりです。
翌年開港されてアメリカ人が多数入ってきた横浜を見て、これからの時代は英語が必要と痛感、勉強しはじめます。そしてその翌年、咸臨丸による渡米使節に下僕として加わり、アメリカを見聞、その翌年には遣欧使節にも加わってフランス・イギリス・オランダ・ドイツなど7ヶ国を訪問してその雰囲気を肌で体験しました。
元治元年(1864)にいったん中津に戻りますが、2ヶ月には小幡篤次郎(後に慶応2代目塾頭)らのこの地でできた弟子を伴い江戸に戻り、海外の経験をもとに『西洋事情』を著します。
その「西洋事情」が刊行された翌慶応3年今度は幕府の軍艦受取使節の随員としてアメリカに渡り、多数の教科書を購入してきました。大政奉還・王政復古と続いたこの年があけた慶応4年(1868)4月3日、新銭座の有馬家控屋敷に塾を移し、時の年号にちなんで『慶応義塾』と改名します。
しかしこの新銭座は環境が悪く、福沢自身病気になってしまいます。学生も増えてきて分塾を幾つか作っても間に合わなくなってきたことから明治4年三田の島原藩邸を欧米の警察制度の調査の仕事と交換条件に払い下げを受けることに成功、ここに移転(現在地)しました。この年幼稚舎を併設します。
『学問のすゝめ』はその翌年明治5年から9年にかけて出たものです。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名なくだりは初編の書き出し部分。この本は340万部も売れたといいますので明治の超ベストセラーです。今でいえばドラえもん並みのヒットです。
明治23年には大学を設けて外国人の教授を迎え高等教育を開始します。そして明治31年にはそれまでの正課を普通課に吸収して、幼稚舎・大学科と学年暦を統一、一貫教育が受けられる仕組みに改めました。
一方明治25年には北里柴三郎を助けて伝染病研究所を設立。北里は後に慶応義塾医学部の初代学部長になっています。また明治27年には地元大分の耶馬渓の青ノ洞門付近の景勝地が売却されるという話を聞きこれを買い取りました。これは自然保護運動の先駆けとされます。
福沢は何度か政府の要職に請われているようですが、一貫してそれを断ってあくまで民間で文明開化に貢献しました。彼は政治的な活動を中心におく板垣退助らとは完全に立場を異にしていたようです。それ故に、伊藤博文・大隈重信・板垣退助という戦後の最初の政治家紙幣シリーズではなく、夏目漱石・新渡戸稲造という次の文化人紙幣シリーズに入っているのでしょう。
明治34年(1901年)2月3日午後10時50分脳溢血のため死去。享年66歳。