源頼朝(1147-1199)

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建久9年12月27日、初めて武家政権を樹立した源頼朝が落馬して大けがをしました。

この日、頼朝は稲毛重成の亡き妻の追善供養のため、相模川に掛けた橋が落成。その記念の式典に出席して帰りの出来事でした。

源頼朝は平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源義朝の子供です。

平治の乱で勝利をおさめた清盛は源氏の主だった武将をことごとく処刑しましたが、まだ子供であった頼朝・義経の兄弟と従弟の義仲ら数名を助命しました。これが禍根を残すことになりました。

この時14歳であった頼朝は伊豆に流され、平家一族の北条時政に保護されます。そしてやがて時政の娘・政子と結婚。ここで再起のチャンスを待ちました。

やがて治承4年(1180)4月9日、源頼政(清和源氏だが頼朝らとは遠く離れた血筋)が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵。この兵は制圧されてしまうものの、8月17日頼朝もそれに呼応して立ちました。

戦いはこの後更に9月7日源義仲が木曾で挙兵。10月21日、源義経が頼朝に合流。翌年閏2月4日平清盛が病没すると次第に戦況は源氏の優勢となっていきます。

そして寿永2年(1183)7月28日、ついに源義仲が京都に入城。平家は西海に落ちていきます。翌年1月10日源義仲は征夷大将軍に任じられました。

しかし義仲の兵の軍紀は良くなく、京都で乱暴・狼藉を働く者がありました。そこで頼朝は後白河上皇の意向も受けて義経を京都に派遣。義仲の兵を追い出して、これを倒しました。

頼朝は更に義経に西海の平氏の壊滅を指示。義経は天才的な戦術で、平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦で破ってこれを滅亡させました。頼朝は清盛が自分らを助命したことから源氏の再起を招いたことから、平家一族らには一切情けを掛けず徹底的に殺害しました。

そしてやがて対立した弟の義経も奥州藤原に追いつめて殺害させ(文治5年-1189-閏4月30日)、実質的な日本の支配権を獲得しました。そして1192年7月12日、坂上田村麻呂・藤原忠文・源義仲につづく史上4人目の征夷大将軍に就任しました。

征夷大将軍とは天皇から直々に節刀を授けて任命されるものであり、夷(朝敵)を倒すために非常大権を与えられた武士の最高位の称号です。そして頼朝はこの称号を拠り所にして天皇の代理者であることを主張し、本拠地と定めた鎌倉に政治を行うための「幕府」を設け、大江広元を中心にした政務執行体制を整備しました。

最初の頃、頼朝に付き従ってきた武士たちは「自分たちは頼朝様には従うがなんのために大江広元ごときに従わねばならないのだ」と不平を唱えたともいいます。しかし頼朝はこの「政治体制」を強引に施行。彼が作った体制はその後明治維新まで700年近く続くのです。彼は政治家としてのセンスも優れていたのでしょう。

一方では頼朝は源氏の今後の繁栄のため、娘の大姫の入内の話を進めますが、これは建久7年(1197)11月25日のクーデターに巻き込まれてうやむやになってしまいます。

そしてその1年後のこの日落馬。この怪我がもとで年明けて1月13日死去。53歳でした。このあと鎌倉幕府の源氏の血は頼朝の息子の代で途絶えてしまいます。そして幕府の実権を握ったのは皮肉にも、平氏の一族である北条家でした。


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