建保6年(1218)1月16日の寅刻(午前3〜5時)、後に鎌倉4代将軍となる九条頼経が生まれました。建保6年は戊寅の年、1月は寅月なので、寅年・寅月・寅刻に生まれたということから「三寅(みとら)」と名付けられました(日の干支は戊子)。父は九条道家、母は西園寺綸子(本当は手偏)。この母は源頼朝の妹の孫です。
三寅が生まれた翌年、鎌倉幕府で3代将軍の実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺害される事件が起きます。その後継の将軍を誰にするかが問題になりました。当初時の実力者・北条政子は皇子将軍を実現しようとしますが朝廷内の反対勢力を説得できず失敗。代わって藤原摂関家から三寅が次期将軍としてて鎌倉に下行することになりました。建保7年(1219)7月19日のことでした。
三寅は頼経と名乗り嘉禄2年(1226)1月27日に9歳で鎌倉4代将軍に就任。2年後にはその父・道家も関白に就任します。そして寛喜2年(1230)頼経は15歳年上の頼家の娘・鞠子(竹御所,当時28歳)と結婚します。しかし竹御所は天福2年(1234)7月27日、難産の為死亡(子供も死産)。ここで頼朝の血統は完全に途絶えました。
そのため頼経の後継ぎは藤原親能の娘大宮局との間に生まれた頼嗣が継ぐことになります。頼経はお飾りの将軍としての自分の立場をよくわきまえ管弦や文芸などに専念していましたが、27歳になった寛元2年(1244)「大人になって扱いづらくなった」とされて鎌倉将軍をお払い箱になり、息子・藤原頼嗣(6歳)に後事を託して京都に戻ることになります。