正平5年(北朝では観応元年,1350)4月8日、「徒然草(つれづれぐさ)」の作者として知られる吉田兼好(卜部兼好,1283生)が亡くなりました。(過去帳にもとづくものであるが、近年この従来の説を否定する意見も出てきている。それによると兼好は少なくとも1352年にはまだ生きていたらしい)
卜部(うらべ)家はその名前の通り、占いにより朝廷に仕えた名家で、兼好の家系は代々京都吉田神社の神官をしていました。
吉田神社は平安時代初期の貞観元年(859)に藤原山陰がこの地に藤原家の守護神である春日四神を勧請して創建したもので、奈良の春日大社、京都西山の大原野神社とともに、藤原氏の氏神三社のひとつとされました。
兼好は後宇多天皇(在位1274-1287)に武士として仕えていましたが天皇が正中元年(1324)崩御すると出家。幾つかの地を経て、京都雙丘(ならびがおか)に居しました。歌人としても名高く、和歌四天王に数えられましたが、なんといっても現代まで彼の名を残したのは随筆「徒然草」(1330前後成立)です。
『徒然なるままに、日暮らし硯に向かいて、心に映りゆく由無し事をそこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂おしけれ』
中学高校の古典の授業では、あまり作品の時代背景に立ち入らないので彼を平安時代の人と思っている人が時々いますが、見ての通り彼は鎌倉末期から室町時代初頭にかけての人です。元寇が終了したのが弘安4年(1281)。兼好が生まれたのはその2年後です。
その元寇をしのいだ名執権・北条時宗が1284年にわずか34歳で亡くなると、鎌倉幕府は音を立てるように崩壊していき、50年後の1333年後醍醐天皇の許で建武中興が成立します。しかしその後武士の処遇を巡って新政府は分裂、1336年足利尊氏が室町幕府を開き、南北朝時代が始まります。
兼好が仕えた後宇多天皇は後醍醐天皇のお父さんで、文永の役・弘安の役という未曾有の国難を亀山上皇・北条時宗とともに乗り切った、苦労の人です。後宇多院が亡くなった1324年は正中の変があった年で、兼好はその後の鎌倉幕府の倒壊の状況をずっと見て、世の無常を強く実感したものと思われます。徒然草が成立した時期はそのまさに鎌倉幕府が滅亡への道をたどっていた、乱世の中です。
兼好が盛んにからかっている仁和寺(にんなじ)は仁和4年(888)に宇多天皇が建立したもので、宇多天皇自身が退位後ここに入寺、以来何代もの上皇がここの住持を務めています。
しかし仁和寺にせよ、吉田神社にせよ、武士の時代の鎌倉時代になるとその地位の零落は目を覆う状況であったことは想像に難くありません。要するに本当は吉田の方も、あまりいばれたものではなかったかも知れません。
なお、吉田神社は兼好の100年後に吉田兼倶が出て独特の吉田神道(唯一神道)を成立させ、長く続いた仏教側の神道側への攻勢に初めて1本の楔を撃ち込むことになります。
■徒然草の壁紙説
徒然草が書かれた経緯として、以前このような説がありました。それによると、兼好は時々ふと考えたことをまさに「そこはかとなく」書いては、自坊の壁に壁紙として貼っていた。それを後に今川了俊(1325-1420)が発見して、丁寧に壁からはがして、現在の順序にまとめた。
とても面白い話なのですが、この説は残念ながら現在は否定されているそうです。