藤原定子(977-1000)

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長保2年(1000)12月16日、皇后藤原定子が皇女媄{女美}子を出産しますが、難産のため亡くなってしまいました。

定子は内大臣(のち関白)・藤原道隆と歌人として名高い高階貴子の娘で貞元2年(977)の生れ。永祚2年(990)1月5日に一条天皇が元服するとその月25日に入内。2月11日に女御、10月5日には立后して中宮となります。当時14歳、一方の一条天皇は11歳。さぞかし可愛い両陛下であったものと思われます。

定子は母譲りの才媛で、純情な天皇は彼女に姉のようにあこがれ、二人は熱い愛を育てていきます。この定子に仕えたのが「枕草子」で名高い漢文の遣い手・清少納言でした。

しかし長徳元年(995)4月に定子の父道隆が亡くなると周囲はきな臭くなってきます。右大臣の藤原道兼が関白に昇進し、その後任に満を持して藤原道長が就任。次第に政治の実権を取っていきます。

しかも翌年には定子の兄の藤原伊周が花山上皇に矢を放つという事件に連座して太宰府に流されると、定子の味方は幼い天皇一人になってしまいました。

長保元年(999)11月7日、定子は第一皇子・敦康親王を産み落としますが、その日、藤原道長は愛娘・彰子の入内を強行、更に翌年2月25日、彰子を中宮、定子を皇后とする前代未聞の一帝二后の事態を引き起こします。

そして12月定子没。世は道長の天下へと進んでいきます。

なお、この事態に最も心を痛めていたのは彼女を追い立てる立場に立たされた彰子でした。彼女は父・道長に反発し、彰子の生んだ敦康親王を我が子のように可愛がって育て、次期天皇には自分の産んだ敦成親王(後一条天皇)ではなく敦康親王を推しましたが、父の権力には勝てませんでした。

当時、女たちには女たちの論理がありました。この彰子に仕えたのが紫式部ですが、紫式部が出仕したのは寛弘2年(1005)12月29日ですので、紫式部と清少納言は出会っていないことになります。


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