仁治2年(1241)8月20日、新古今和歌集の撰者の一人で「小倉百人一首」の撰者でもある藤原定家(1162生)が亡くなりました。
定家が生まれたのは平治の乱が終わった3年後。武士の政治が始まろうとしていた時です。平清盛が太政大臣になったのが定家6歳の時です。そして定家が31歳の時に鎌倉幕府ができています。しかしその幕府を作った源頼朝の家系はわずか3代で途絶えてしまい、定家が亡くなった時には4代将軍には源頼朝の姪の孫に当たる藤原頼経が就任していました。彼はこういう激動の時代に生きていました。
新古今和歌集の撰進が下命されたのは建仁元年(1201)11月3日のことでした。後世、万葉集・古今和歌集と並ぶ三大和歌集のひとつと称される8番目の勅撰和歌集でした。後鳥羽上皇自身をはじめとして藤原定家、藤原有家、藤原家隆、藤原雅経、源通具が撰者としてあたり元久2年(1205)に一応完成します。しかしその後もこの和歌集の整理作業は継続されました。
そんな中、承久3年(1221)に承久の乱が起こり、後鳥羽上皇は隠岐に流されてしまいます。上皇は関係資料を持って隠岐へ赴き、その地で「隠岐本新古今和歌集」を作り上げました。
一方の定家もこれだけ優秀な和歌集ができたにも関わらず、どうしても不満なところが残ったといいます。そこでいつしか彼はこの小倉百人一首を編集し、古今の優秀な和歌100首を集めたのだといいます。この百人一首の完成した年月は明らかではありません。
なお百人一首がカルタとして使用されるようになるのは戦国時代の終わりに西洋からトランプが入ってきてからのことです。それまでは一般に色紙に書いて愛でたりしていたようです。