物語はこう語られています。
昔男がいた。なかなか思いをとげることのできそうもなかった女を、とうとうある夜盗み出して、芥川という所まで来た。その時草に露が光っているのを見て女が「あのキラキラするものは何ですか?」と聞いた。女は深窓の令嬢であるからして、夜露など見たことがなかったのである。
しかし男はまだまだ逃げなくてはいけないのでそれには答えず先を急ぎ、やがて雨が降ってきたので、近くの小屋の中に逃げ込んだ。そして女を奥の方に寝せて自分は入口の所で見張っていた。ところがその小屋は鬼の住む小屋だったのである。女が悲鳴をあげたが雷のため男は気づかず、女は鬼に食われてしまった。
朝になってやっと異変に気づいた男はさめざめと泣いてこのような歌を詠んだ。
白玉か何ぞと人の問ひし時 つゆと答へて消えなましものを
(白い玉かしら何かしら?と愛しい人が聞いた時に、あれは露というもの だよ、と教えてあげて自分も露のように消えてしまえばよかったのに)
男は在原業平(ありわらのなりひら,825-880)。平城天皇の孫。女は藤原高子(ふじわらのたかいこ,842-910)。藤原基経の妹。
業平は高子の伯父と同僚で、その縁もあり二人は高子が20歳前後の頃から愛を通じあっていたようです。しかし高子は清和天皇に嫁がなければならない定めにありました。入内は貞観8年(866)。高子と清和天皇の仲は必ずしもよくなく清和天皇の愛は高子の従姉多美子にありました。しかし運命は皮肉で天皇と多美子の間には子供はできず高子との間に産まれた貞明親王が後に陽成天皇となり、おかげで基経の家はその後も代々栄えていきます。
高子と天皇との仲がよくなかったことは、後に清和天皇が譲位後出家(876)した時に多美子は一緒に出家して従ったのに対して高子は出家しなかったことにも現れています。そしてその頃まで高子の思いはずっと在原業平の上にありました。恐らく業平の死まで二人の愛は続いていたのでしょう。
千早振る神代も聞かず龍田川唐紅に水くぐるとは
この歌は宮中で業平が高子の前で詠んだといわれており、二人の愛の証です。
(昔の日本人というのは、大海人皇子と額田王の歌のやりとりなどを見ても、結婚している女性が夫以外の男性と恋を語ることに対して寛容だったように思われます。男も多数の女性と付き合っているので、女性も...ということでしょう。通い婚というのは男が複数の女と付き合うのにも好都合ですが、女が複数の男と付き合うのにも好都合です。)
「白玉か」の事件は恐らく入内前の864年前後のことではないかと思われます。事件は実際には追ってきた基経の手の者に高子を取り戻されてしまう訳ですが、それを「伊勢物語」は風流に、鬼に食われたと表現したのです。
鬼とは政治の道具として女性を使う宮中の権謀術数の塊のことなのではないでしょうか。この話は伊勢物語第6段のエピソードです。伊勢物語ではこのあと業平の東下りの話になり、伊勢物語はこれが原因で業平が左遷されたと語っているかのようです。
名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
この「わが思ふ人」も当然高子のことなのでしょう。むろん業平はその後京に戻り、元慶3年(879)には頭中将(今で言えば官房副長官みたいなもの)にまでなっています。高子にもその程度の力はあったわけです。
その在原業平、元慶4年(880)5月28日没。