のちに安徳天皇となる言仁(ときひと)親王は高倉天皇と平徳子(建礼門院)の間に治承2年(1178)11月12日に六波羅の平重盛(*1)邸で産まれました。
高倉天皇は後白河天皇と平滋子(建春門院)の子供で、この平滋子というのは平清盛の妻・平時子(二位尼)の妹ですが、よくできた妹(天皇の女御になった)に対して、必ずしも優秀でない姉(遠い分家の清盛の妻になった)ということで、両者は必ずしも仲は良好ではなく高倉天皇に対しては平清盛もあまり影響力を行使できませんでした。
(*1)重盛は清盛の長男、つまり徳子の兄だが清盛より先(1179)に亡くなった。
そこで自分の娘である徳子が産んだ子である言仁親王に清盛は大きな期待を寄せ、翌月には皇太子に立てられ、治承4年2月21日、今の数え方でいえばわずか1歳3ヶ月の親王に、高倉天皇は譲位させられました。
もちろん1歳3ヶ月の子供が政治を動かすことができる訳がなく、実権は清盛(この時点では既に太政大臣は辞任している)にありました。ところがその清盛が治承5年(1181)閏2月4日に64歳で急死。政局は一気に混迷します。
基本的には後白河法皇が院政を行う形になったものの、東国では既に源頼朝と源義仲が平家打倒の兵を挙げており、頼朝の所に知将・源義経も参加していました。平家一門は中心人物を欠いたままこれに対抗せざるを得ませんでした。
寿永2年(1183)源義仲の軍が京都に迫る7月20日、後白河法皇は平家一門を見捨てて京都を脱出。この時幼い天皇は平宗盛の屋敷にあったため連れ出すことができませんでした。そしてその宗盛も25日には天皇およびその母の建礼門院を連れ、三種神器も持って西海に落ち延びました。(*2)
その後天皇は母と共に平家一門の保護下にあり、四国の屋島から本州西端の長門国まで落ちていきます。そして寿永4年(1185)3月24日、壇ノ浦合戦で二位尼に抱かれて海中に沈んでいきました。この時母の建礼門院が抱いていなかったのは、やはり母が我が子を抱いていては入水しきれなかったからかも知れません。享年8歳(今の数え方でいえば6歳4ヶ月)。
なお三種神器は、鏡はそれを抱いた女官が水に入る前に源氏の兵に抱き留められ、勾玉は海面に浮いているものを回収されましたが、剣は結局回収できませんでした。
(*2)京都では8月20日に後白河法皇の指示により天皇の弟の尊成親王(1180 年7月14日生,今の言い方でいえば3歳1ヶ月)が新しい天皇として践祚 した。しかし皇位の印である三種神器は安徳天皇と共にあり、これ から安徳天皇が亡くなるまでの間は前代未聞の二帝併立状態にあった。