講談でおなじみの清水次郎長が明治元年9月18日、勇気ある善行をしたことが伝えられています。
清水次郎長は、文政3年(1820)1月1日、静岡県清水市の船待船頭・雲不見三右衛門の子供に生まれ、長五郎と名付けられました。しかし元旦生まれの子供はよほど偉くなるか悪い奴になるという言い伝えがあったため、叔父の山本次郎八の養子にされます。そして次郎八の家の長五郎ということで、縮めて次郎長と呼ばれるようになったものです。
次郎長は初期の段階ではその「悪い奴」の方の芽が出ます。あまりに手が負えないため15の時に次郎八から勘当され、19歳の時に見てもらった占い師が『あんたは25歳までしか生きられない』と言ったことから、では短く太く生きよう、ということでこの世界にのめりこんでいきます。そして街道でも最も有力な親分の一人になりますが、その時に起きたのが森の石松事件でした。
時は万延元年(1860)、森の石松は次郎長の名代で讃岐の金比羅様にお詣りしますが、その帰り道、策略にあって都田一家に殺され、金を奪われます。知らせを聞いた次郎長はただちに大政・小政らを連れて(相手の人数と合わせて同じ人数をピックアップして赴いたのも有名)仇討ちに行き、無事石松の無念を晴らすのですが、この結果次郎長の勢力範囲は三河まで広がることになりました。この事件の顛末が講談で有名なところです。講談では石松の『江戸っ子だってねぇ。寿司食いねぇ』のセリフも有名です。
さて、慶応4年(1868)次郎長の人生を一変させる事件が起きます。
この年官軍は東海道をどんどん東進。やがて江戸では幕府軍と激しい戦闘が行われることが予想されました。しかしこのままでは幕府は官軍の前に完全に打ち破られ、徳川家自体が消滅してしまうと幕府陸軍総裁・勝海舟は危機感を抱きます。そこで彼は官軍の指導者の一人で旧知の間柄である西郷隆盛と連絡を取り、江戸城を官軍に無抵抗で明け渡す代わりに、徳川家に寛大な処置をしてくれるよう交渉しようと決意します。
そのため勝海舟は腹心の山岡鉄舟に密書を持たせて駿府まで来ていた西郷隆盛の元に派遣します。そして、この鉄舟の護衛役を依頼されたのが街道の治安を事実上一手に管理していた次郎長であったのです。
この鉄舟とそれを支援した次郎長の努力は実り、この年3月13〜14日、勝海舟と西郷隆盛の直接交渉が実現。江戸城は無血開城されることとなり、その14日、五ヶ条のご誓文が発表されて明治維新が始まります。
そしてこれを契機に始まった鉄舟と次郎長の交流は次郎長の人生観を大きく変えました。実は次郎長は明治維新を契機として侠客を廃業してしまうのです。
それを象徴するのがこの9月18日の事件でした(9月8日に明治と改元されている)。この数日前、清水沖で幕府の艦船と官軍の艦船の激しい戦闘があり、幕府の誇る咸臨丸なども撃沈されて、多数の幕府軍の兵士の遺体が港に浮いていました。哀れでもありますし、また漁の邪魔にもなったのですが、それに触れば官軍から睨まれそうで、漁民たちも手が出せずにいました。
そのことを聞いた次郎長はただちに子分たちを組織、港に浮かぶ遺体の回収作業をおこなって、丁寧に埋葬、石碑まで建ててやりました。案の定官軍から文句を言ってきますが、次郎長は「死んだ者はみな等しく仏である。官軍も賊軍も無い」と言って突っぱねます。結果的に次郎長にはお咎め無しになるのですが、その裏には山岡鉄舟のフォローもあったともいわれているようです。あるいは逆に山岡が次郎長に依頼して回収させたのだという説もあるようです。
ともかくもこの事件で次郎長は地元の人々から大いに尊敬されるようになりました。
次郎長はその後、明治維新後の清水地区の発展にいろいろな貢献をしています。三保の新田開発、巴川の架橋、相良町の油田開発、英語学校の設立、又蒸気船による海運会社の設立(後にこの船で静岡の茶が東京に出荷される)などの事績がありますが、中でも有名なのは富士の裾野の開墾事業でした。
この開墾事業では、次郎長自らも鍬をふるい、かつての子分たちも親分を慕って集まり、一緒に原野を耕して農地へと変えていきます。そして、その次郎長が開墾した場所は現在では立派な茶畑となって、全国の家庭にそこで採れたお茶が届けられているのです。