寛延4年(1751)6月20日江戸幕府の8代将軍徳川吉宗(1684-)が脳卒中のため死去しました。徳川御三家の紀伊徳川家光貞の4男として生まれますが、長男の頼職が急死した時、2男・3男は既に他家へ養子に出ていたため、急遽家督を継ぐことになります。そして藩政の改革に手腕を発揮しました。
そして折りも折り、7代将軍家継がわずか8歳で死去し、当然跡継ぎがいなかったため吉宗は更に急遽征夷大将軍を継ぐことになります。この時元々は万一の場合は御三家筆頭の尾張家の徳川吉通が継ぐ予定だったのですが、その吉通も急死してしまったため御三家第二の紀州家の吉宗に御鉢が回って来ました。吉宗というのはこのようにものすごい偶然の作用によって、普通に考えたら望むべくもなかった将軍職に就いた人です。
吉宗は将軍職についてから紀州でやったような改革を更に全国規模で断行しました。これを「享保の改革」といい、これにより徳川政権の寿命は大幅にのびることになります。彼の事績は非常に多くよく知られているものだけでも次のようなものがあります。
・江戸町火消しを設置して火事対策を行った。・目安箱を設置して庶民の意見を政治に取りいれた。・小石川養生所を設置して、庶民の病気治療に当たらせた。
吉宗は米の安定供給のためにもかなりの苦心をしますが、出来不出来はどうしても自然まかせ。これだけはさすがの彼もどうにもなりませんでした。
(米問題は歴代の改革者の悩みの種でした。寛政の改革を行った松平定信も 例の大黒屋幸太夫に絡んだロシアとの外交交渉で、ロシアと協定を結び、 相互に食糧の融通をし合う条約を結ぼうとしていましたが、在任中に交渉 成立までたどりつきませんでした。もしこの条約が成立していたら日本の 開国は50年早かったことになります。)
吉宗に抜擢されたことで知られる名奉行大岡越前守忠相は地方の役人だったところを吉宗が紀伊藩主時代に見出し重用して、江戸に来る時に一緒に連れてきたものです。幕末の名奉行遠山金四郎景元とともに江戸2大名奉行とされ、彼の裁判は「大岡裁き」として講談の題材にも取り上げられました。後に1万石を与えられ大名に列せられています。