享和元年(1801)9月29日、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)が死去しました。72歳でした。
日本の古代文化の研究は荷田春満(かだのあずままろ,1669-1736)に始まり、賀茂真淵(かものまぶち,1697-1769)と本居宣長の二代により完成を見ました。そして、その後この研究をベースに平田篤胤(1776-1843)の国学が成立して、明治維新のひとつの原動力になっていくわけです。
本居宣長は享保15年(1730)5月7日、伊勢の松阪で生まれました。国学を志し、源氏物語などの研究を進めますが、その更に古い時代の古代の万葉仮名で書かれた文献に関しては、古い知識が失われている現状では難解を極めました。
万葉仮名というのは、平安時代にひらがな・カタカナが成立する前に、漢語で表現できない日本語の言葉を漢字の音だけを借りて書き記したものです。たとえば、イザナギ・イザナミの二柱神がこの世に派遣された時の記述は
於是天神諸命以詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神修理固成是多陀用弊流之國 賜天沼矛而言依賜也故二柱神立天浮橋而指下其沼矛以畫者鹽許々袁々呂々 邇畫鳴而引上時自其矛末垂落之鹽累積成嶋是淤能碁呂嶋
などとなっています(岩波文庫による)。これを少しずつ読み解いて行くと
於是天神諸命以 ここにおいて天の神、諸々のみこと以て (漢文式) 伊邪那岐命伊邪那美命 いざなぎのみこと、いざなみのみこと (混成) (伊邪那岐・伊邪那美は音を借りた万葉仮名,命は訓読み) 二柱神 ふたはしらのかみに (漢文式) 修理固成 おさめ、つくり、かため、なせ (訓読み) 是多陀用弊流之國 このただよえるのくにを (混成) (多陀用弊流が音を借りた万葉仮名) 賜天沼矛而 天のぬまほこをたまいて (漢文式) 言依賜也 ことよさせ、たまうなり (漢文式) 故二柱神立天浮橋而 故に ふたはしらの神 天のうきはしにたちて (漢文式) 指下其沼矛 そのぬまほこを さしおろして (漢文式) 以畫者 もって掻けば (漢文式) 鹽 しおが (訓読み) 許々袁々呂々邇 こをろ、こをろ、に (混成) (許袁呂が万葉仮名で「こおろ」。それをリピート) 畫鳴而引上時 掻き鳴して、引き上げたとき (漢文式) 自其矛末 そのほこのさきより (漢文式) 垂落之鹽 したたるのしお (漢文式) 累積成嶋 かさねつもりて、しまをなす (漢文式) 是淤能碁呂嶋 これがオノコロ島である (混成) (淤能碁呂が万葉仮名。一般に固有名詞は万葉仮名に ならざるをえない)
といった感じになっています。(実際の読み下し文はもっとすっきりします。上記では原文の構造ができるだけ分かるような形に読んでみました)
現代では諸先輩方が「解読」してくださっているので、我々でもこうやってすんなり読める訳ですが、何のヒントもない状態で、これを読むのは、おそろしく大変な作業であったと思います。
さて、それで本居宣長がこういうものを前に、ウンウンうなって悩んでいた時、宝暦13年(1763)5月25日、この分野の先駆的研究者である賀茂真淵が松阪に宿泊することを聞きました。
宣長は無理を言って真淵を宿に訪ねていき教えを乞います。真淵はそれまで一生をかけて古文献を研究してきており、万葉集に関してはほとんどの部分を解読終えていました。真淵は宣長に「まず万葉集からお始めなさい」と助言します。(松阪の一夜)
この年彼は真淵に正式に弟子入りし、手紙のやりとりで分からない所などを教えてもらい、古文献に関する研究が進み、万葉集を経て35年!!の歳月をかけた「古事記伝」を完成させます。