享保19年(1734)4月24日、紀伊国屋文左衛門が亡くなりました。
一代で大きな富を成したものの一代でその富を使い果たしてしまい、晩年は苦しい生活であったとも伝えられます。しかし別の説では子孫に美田を残さずの精神で一代で財を使い尽くしたのだとも言われます。
「紀伊国屋」の名の通り、文左衛門の生まれは紀州であったようです。寛文9年(1669)の生まれですので三井高利(1622-1694)より1〜2世代後の商人ということになります。
みかんを船で江戸に運んで大儲けしたとか、火事で江戸が焼け野原になった時に大量に材木を売りさばいて巨富を得たとも言われていますが伝説化している部分が多く、どこまで信頼していいかよく分からない部分もあります。
綱吉の側近・柳沢吉保と親密であったとも言われますが、別の説では同様に紀州から出てきて将軍になった徳川吉宗と懇意であったとも聞いたことがあります。
とにかくも大財閥の礎を築いてもおかしくないくらいの利益を得たのにそれを全部自分の代で使い切った剛気な人の姿がそこには見えます。