春日局

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寛永20年(1643)9月14日、将軍家光の乳母で、江戸城大奥の整備者である春日局が亡くなりました。

春日局の本名は、斎藤福です。天正7年(1579)美濃国に生まれました。

父親は明智光秀の一番の重臣・斎藤利三で、光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に負けた時に捕らえられ、六条河原で処刑されて粟田口に首をさらされました。そのため、お福は豊臣の時代には逆賊の娘として、不遇な少女時代を送ります。

ところがその豊臣が倒れて徳川の天下になりますと、敵の敵は味方ということで一転して明智の家臣に光が当たります。しかも彼女は一度天然痘をやってアバタ顔であったため、天然痘に免疫のある女として、家光の乳母には最適ということになったのです。

さて、家光の父は2代将軍・秀忠、母は淀君の妹・浅井江与です。二人の間には最初男の子が生まれ、続いて竹千代(家光)が生まれるのですが、竹千代が生まれた途端、最初の男の子が死んでしまいます。すると両親としては、竹千代が生まれたために上の子が死んだような気がして、どうも竹千代に対して愛情を注ぐことができませんでした。

そうこうする内、お江与はまた男の子・国松(後の徳川忠長,時代劇でおなじみ松平長七郎の父)を産みます。すると今度はこちらが死んだ子の生まれ変わりのような気がして、両親の愛は国松一人に集中することになるのです。

そのため、江戸城ではなにかと国松が大切にされ、竹千代はその次にされていました。そういう両親の態度を見たお福は、このままでは世継ぎは竹千代を差し置いて国松になってしまう、と危機感を覚え、駿府に隠居中の家康に直訴することを考えます。しかし当時はもう入鉄砲・出女の規制の掛かっていた頃で、女性が勝手に江戸を出ることは不可能でした。

そのため、彼女はお伊勢参りに行くという口実を思いつきます。そして江戸を出るとそのまま家康の所へ駆け込みました。話を聞いた家康はすぐに行動を起こします。

突然の大御所の来城に秀忠は慌てます。とにかく上座を勧めて、挨拶など交わすのですが、「孫の顔が見たくなってのう」などと家康はとぼけた顔で言います。そこで竹千代と国松が呼ばれるのですが、家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せ、隣に座らせます。すると国松も一緒に側に寄ろうとしますが、ここで家康厳しい言葉を投げます。

「長幼の儀礼をわきまえないとは何事か。竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、国松殿は弟、臣下となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ」と。

そして家康は畏まる秀忠に笑顔で一言声を掛けるのです。「ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう」。

この家康のまさに鶴の一声により、将軍家を継ぐのは竹千代と決定したのです。

このことによりお福は家光の深い信任を得、やがて元和9年(1623)に家光が将軍に就任し、寛永3年(1626)にお江与が亡くなると、大奥を一手に任されることになります。そして江戸時代の大奥のいろいろな組織は、このお福の時代に定まることになります。

ところで家光の妹の和子(まさこ)は元和6年に後水尾天皇に嫁いでいました。これを気遣っていた家光は寛永6年、お福を自分の名代として京都に派遣し、様子をうかがわせました。しかし本来はお福は無位の身。天皇の女御に面会できる地位ではありません。しかし家光は将軍家の威光をかさにこれを強行。お福を三条西実条の仮の妹ということで宮中に入れました。

これに対して天皇はお福に「春日局」の称号を与えますが、天皇家の力の無さを実感して無気力に陥り、和子の娘・興子内親王に譲位して、859年振りの女帝(明正天皇)が誕生します。


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