一尊如来きの(1756-1826)

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きの はいわば中山みき(天理教,1798-1887)の先駆者です。

きの(幼名とわ)は宝暦6年2月2日、尾張名古屋の旗屋町で生まれました。家は古い家柄で先祖には神官もいたといいます。8歳の時に両親と死別して叔父に引き取られ、13歳の時から漢方医・橋本大進の家で奉公、ついで橋本家の知り合いの尾張藩士石河家の隠居に仕えました。この隠居が亡くなった後結婚をしますが夫の身持ちが悪かったため離婚して、再び石河家に身を寄せました。

その後石河家を辞して、少しずつ貯めていたお金で生家を買い戻して再興。一人で田畑を耕して暮らすようになりました。享和2年(1802)47歳の時突然神懸かりして、神の言葉を話すようになります。そのきのの祈祷を受けるために少しずつ人々が集まるようになり、尾張藩士の中にもかなりの信者が出ました。

きのの思想はその尾張藩士たちにより書き留められています。それによれば宇宙を創造した如来様が前世で罪を犯した人たちを救うために金比羅大権現を使者として、きのの許に遣わしたとし、神仏の存在と愛を認め神仏に帰依することにより彼岸に到達するとしました。

 ・我らは唯一絶対、慈悲の根源たる如来の存在を信じる・この世を創り給いし如来が、その子供たるこの世の全てを良き所へ向かわせようとする、如来の無限の愛と救いを信じる

この教理は浄土宗的でもありますが、見ようによってはキリスト教のようにも見えます。そのため、きの自身文政3年(1820)に尾張藩から呼び出しを受けて取り調べを受けています。しかし特におとがめはなく、文政9年(1826)5月2日、71歳で亡くなるまで、多くの信者のために祈祷を続けました。

なお、教団はその後きのの養女の菊、日行、小寺一夢と継承されましたが、一夢の代に弾圧を受け、布教禁止処分を受けます。しかしその後一夢の子の小寺大拙が再興し、明治17年、曹洞宗に所属する地蔵堂として政府から布教の許可を得ました。

戦後は曹洞宗から独立して如来宗(のち如来教)となりましたが、それに先行して曹洞宗からの独立運動をしたグループは結局一尊教団を形成するに至ります。きのが遺した「お経様」は実は如来教では非公開にしていたのですが、一尊教団が全てを公開したため信者以外にもその内容が明らかになりました。


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