井伊直弼(1815-1860)

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「桜田門外の変」で命を落とした幕末の大老・井伊直弼は文化12年(1815)10月25日に彦根藩第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれました。普通ならこんな下の方で産まれた子が藩を継ぐことはあり得ないわけで、直弼もずっと部屋住みの身だったのですが、兄達がどんどん他へ養子へ出てしまった後、兄で藩を継いだ直亮に子ができなかったため弘化3年(1846)兄の養子となり、4年後兄の死に伴って彦根藩35万石の当主となりました。

彦根藩は徳川家康の四天王の一人井伊直政の子孫です。直政が関ヶ原の戦いで亡くなった後、長男の直勝が大坂の陣に参戦できなかった為、次男の直孝の系統がこの藩を継ぎ、直勝の系統は上野安中藩に移りました。ここは譜代大名の筆頭とされており、また京都守護の密命を帯びていたともいいます。

家康は成り行き上江戸に本拠地を築いたため、そこに幕府を開いた訳ですがいつ何時誰かが京都に上って天皇から新たな統治者として認められるようなことが起きるかも知れない。そういう場合にそれを阻止することが井伊家の役割であったという説もあります。

重要な家柄であるため何人もの大老を出しており、江戸時代に任命された12名の大老の内、実に5人が井伊家です。

黒船来航の処理をした若き老中・阿部正弘が安政4年(1857)過労のため急死したあと、堀田正睦が一時政権を引き継ぎますが、物分かりの悪い朝廷の反対を押し切って安政5年6月19日、日米修好通商条約締結を断行、それと引き替えに4日後の23日、老中職を辞します。

井伊直弼が大老に就任(就任自体は同年4月23日だがその時点ではまだ堀田の方に実権があった模様)したのはその極めて難しい時期のことでした。

それ以前の彼の言動を見れば、直弼は決して開明派ではありません。むしろ心情的には攘夷派に近い所にあったのですが、実際に堀田正睦の後をついで政権を担当すると、そのような原則論ではどうにもならないことを認識しました。外国の脅威が目の前にある時、無意味な論争をしている訳にはいきませんでした。

取り敢えず彼は諸外国と条約を結んで、いきなり武力侵攻してくることはない状況を作り出し、その間に海軍力を急いで充実させなければならないと考えました。そのため彼はアメリカ以外のオランダ、ロシア、イギリス、フランスなどともアメリカと同様の条約を次々と結んでいきます。そして外国奉行を設置すると共に、各大名に外国製の武器を購入するように推奨します。万一どこかの国と総力戦になった時の用心ですが、結果的にはこの武器が数年後に官軍の主力となります(特に速連射できる上に高い殺傷能力を持つガトリング銃は強烈であった)。

しかしこのような重大な時期に当時はもうほとんど実権がなかったとはいえ将軍の徳川家定が死去。攘夷派はその中心人物の一人である水戸の徳川斉昭の息子で一橋徳川家を継いでいた徳川慶喜を後継に推していましたが、直弼は敢えて紀州徳川家の慶福(家茂と改名)を強引に後継に据え、斉昭には謹慎を言い渡し、徳川慶喜も登城停止処分にしました。

更には各地の攘夷派のリーダーを次々と逮捕。開国反対派の公家にも朝廷に圧力を掛けて謹慎させ、強権で国をまとめようとします。これが安政の大獄で、橋本左内・吉田松陰らが処刑されています。

これに対して直弼の強権発動に反発し、更には反米感情を持つ水戸藩士17名と薩摩藩士1名は一応藩を脱藩した上で、安政7年(1860)3月3日早朝、江戸城の近くの愛宕神社に集結。上巳の節句のため登城しようとしていた井伊直弼の行列を桜田門外で襲撃して、この命を奪いました。

井伊直弼・享年46歳。

この後、江戸幕府はきちんと政治を動かすことのできる人物が現れず自己瓦解の道を突き進んで行きます。偶然にもこの時期アメリカで南北戦争が勃発(1861)していなかったら、日本はアメリカの植民地にされていてもおかしくなかったかも知れません。(1865南北戦争終結。1867大政奉還)


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