松平伊豆守信綱(1596-1662)

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寛永9年(1632)11月18日、松平信綱が老中に準じられました。

松平信綱は伊豆守(いずのかみ)に任じられていますので「知恵伊豆」の名で知られています。家光の側近中の側近であり、江戸時代初期の幕藩体制の確立時期に彼が果たした役割は大きいようです。

慶長元年(1596)10月30日幕府の代官大河内久綱の子に生まれましたが、6歳の時に叔父の松平正綱の養子になりました。家光が生まれた時、その家人として指名され(当時9歳)子供の時からそのおそばに付き従う者として教育されました。

子供の頃の有名なエピソードにこういうのがあります。ある日家光の言いつけで屋根にいる雀を捕まえに行った信綱が足をすべらせて庭に落ち、たまたま通りかかった家光の父・秀忠にとがめられたことがありました。秀忠は家光の命令だろうとは思ったものの「誰に頼まれたか」と信綱を詰問。しかし信綱は柱に縛られても袋に詰められても決してしゃべろうとはしませんでした。そこで秀忠はこの子はほんとに家光の貴重な財産になると考えたといいます。

やがて元和9年(1623)家光が将軍になるとまず小姓組番頭として彼をそばに置きやがてこの年事実上の老中に就任しました。(当時はまだ老中や若年寄といった職制が明確に成立しておらず、彼の老中就任の年代についてもこの1632年11月を採るものから翌年10月を採るもの、また寛永12年を採るものなど文献によって様々のようです)

江戸の貨物ターミナル河岸(かし)を設置し、度重なる江戸の大火の事後処理や防止策の策定、江戸の人口政策、字の読めない庶民向けの象刑(絵で書いた禁令と対応する刑罰の図)の制作、各地の大名のお家騒動の処理などのほか、由比正雪の陰謀を早期に発見してこれをつぶし、さんざんてこずる羽目になった島原の乱の平定など、ひじょうに多数の施政・事績において高い貢献をしています。島原の乱の平定にも忍者を駆使していますが、由比正雪の件も配下の忍者からの情報という説もあり、彼は情報戦の名手であったのかも知れません。「知恵伊豆」の「知恵」はおそらく「情報」あるが故のものなのでしょう。

島原の乱(1637-1638)では幕府も当初事態の深刻さが分からずに板倉重昌を派遣して大失敗し、もう絶対に失敗が許されない環境での派遣。まさに江戸幕府の威信が揺らぐかどうかの瀬戸際での大仕事でした。彼は忍者を原城内に潜入させて様子を調べるとともに兵糧攻めをしている最中の城から更に備蓄されている食糧を盗み出させ、オランダに協力してもらって艦砲射撃を加えるなど、まさになりふり構わぬ必死の態勢でこれを収めました。

信綱がまさに命をかけて仕えていたであろう家光が慶安4年(1651)若くして亡くなると、信綱と共に側近として仕えていた同じ元「六人衆」の堀田正盛や阿部重次が殉死したのに対し、最も家光に近かったはずの信綱は生き残る道を選び周囲を驚かせましたが、彼は「私が今死んだら誰が幼い(11歳)将軍家綱殿を支えるのだ」と一蹴しています。

島原の乱でもオランダに協力を求めたことを批判する人たちがいましたが、彼は他人の評価よりも必要なことを断固として実行する真のマキアベリズムの理解者であったのでしょう。

そしてその幼君家綱が立派に成人したのを見届けるように寛文2年(1662)3月16日死去。享年67歳。


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