玄奘三蔵(600?-664)
西遊記の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘三蔵は麟徳元年(664)
2月5日に亡くなりました。(生年は諸説あり599〜602年と。つまり享年
63〜66歳)日本では天智天皇の親政の時代です。
玄奘は俗名・陳緯(褘)。13歳くらいに得度して玄奘を名乗り、兄と
ともに長安に出ました。その後、成都・荊州などもまわって各地で仏教を学
びますが諸師の教える所がまちまちで互いに矛盾を含んでおり、どれが正し
いのか悩みます。そしてやがてそれを確かめるにはインドに行って原典を取
ってくるしかないと決意します。かれはその旨を太宗皇帝に願い出ますが、
当時は国外への旅行を禁じていたため却下。手を変え品を変えて三度願い出
ますが、どうしても許可が下りず、とうとう貞観7年(633)、彼は国禁を犯し
て無断で玉門関を越え、国外に出ました。
彼のルートは長安から北西に進路を取り、會州・涼州・甘州・粛州・爪州と
進んでから国境を越えて天山山脈の北側を回るルートを通って高昌国に至り
ます。彼はこの国の王にたいへん歓迎され、この地に留まって欲しいとまで
言われるのですが、自分はぜひとも仏教の原典を中国に持ち帰りたいと言う
と、王は彼に多額の資金の援助をし、また帰りに是非寄って下さいと言って
多数の従者も付けてインドに向かわせました。
しかし、この従者の大半はインドまでの厳しい旅の中で亡くなっています。
この旅は玄奘にとっても生きて帰れるかどうか確率は1割以下とも思える、
ほんとにすさまじい旅であったようです。天山山脈のそばで吹雪の中を進み
ながら、彼は一心に『観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時....』と般若心経を
唱え続けていました。
一向はカザフスタンから南下、アフガニスタンのカブールに出たあと、カシ
ミール山地の南側を通って北インドに入りました。
インドでは北インドのヴァルダナ国の王に歓迎され篤い保護を受けます。こ
のヴァルダナ国の勢力範囲を彼はスタネスワラから東へ向かい、カンヤクブ
ジャ、パータリプトラ、そして現バングラデシュ領内のサマタタまで行きます。
その後南インドへ向かい、ヴェンギ、そしてカンチまで行ってから、インド
西岸に沿って北上、ナーシクを経て、再びヴァルダナ国に戻りました。王は
これから中国に戻るなら、天山を通るよりもヴェトナム方面を経由した方が
楽でしょうと勧め、彼が集めた膨大な経典を持ち帰るための馬や随員たちも
用意しましたが、彼は来る途中高昌国でお世話になったので、そちらを通ら
なければならないと言い、結局今度はカブールからパミール高原を越えて、
天山山脈の南側を通るルートで帰国することになります。
しかしその途中で彼を待っていたのは高昌国が他国の侵略により既に滅んで
しまったという報せでした。そこで彼はその方面に寄ることなく、そのまま
敦煌・爪州から唐に戻っていきます。
玄奘は国境まで来ると禁を犯して国を出たことをお詫びし、自分が多数の経
典を持ち帰ったことを報告する手紙を太宗皇帝に出します。そしてお許しが
出たのを待って長安に帰着しました。貞観19年(645)1月のことでした。
むろん太宗は彼のような優秀な僧を危険な旅に出したくなかったから国外に
出ることを許可しなかっただけであって、成果を上げて帰ってきた今、そし
てちゃんとお詫びもしている状況で彼の入国を許可しない理由はありません
でした。
帰国後、彼はこの膨大な経典(馬22頭で運んで来たらしい)の翻訳に取りかか
ります。彼のその後の20年弱の人生のほとんどはこの翻訳作業に捧げられま
した。また彼はその旅の様子を弟子に口述筆記させ「大唐西域記」として
まとめました。これは唐にとっても西域の諸国の様子を知るための重要な
資料となりましたが、現代の私たちにとっても当時のその地域のことを知る
ための貴重な資料です。後に「西遊記」がこの本に着想を得て書かれること
になります。
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